ブックタイトルうしぼりの文化財 民俗資料編

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概要

うしぼりの文化財 民俗資料編

ありました。今はーっか、二つになってしまいましたが皆古墳です。あの台地が昔栄えた地であることはこれてわかります。上戸川は現在、潮; 良里稲荷の下を流れて北利根に出てがりますが、昔は今の上戸川部落と潮来の西町部落の人家のある場所を台地にそうて流れていたものらしいです。井戸を掘った時にその痕跡がそちこちで発見されました。台地の裾を上戸川|がこのように流れていたこどを考えるど尚更要害の地てあることカ、はっきりL、たします。長者な1)、土豪なりが怯むのに最もふさわしい場所だったのではないでしょうか。大塚は(膳棚塚)は当時の豪族の( 或は長者と言ってもよいてしょう)、物見合ではなかったかど私は考えております。ひさご塚に対する膳立(お祭り)の塚ど見ることも出来ますが、時棚山という名がその当時独立してあったのかどうかはわかりませんがこの場所に物妻い松の巨木があったことは事実です。ロ戸、にある「潮来のバラバラ松」はこれです。切り倒した時、f付近にあったものはメチャメチャになりました。,J、 枝まです っかり仕末するのに三年かか ったどいう話が 残 っているのを考えても如何に大木であったかが相像されるわけです」(昭和43年5月27日)新荘直;京さんのお話(郷土史研究家)rj卸7主主ロのように稲荷山の裏手-から台上戸部落に至る一帯を大塚計ど言っておりました。今の給水塔はその大塚のまょに建っております。惜しいことをしたものです。せっかくの遺産が跡かたもなくなってしまいました。イ可もあのま毒i戸庁でなくともよかったのではないかど思いますIJ"。キムも大塚野一帯を長者屋敷ど推定しております。今の月番棚中にこだわると昔の姿が浮びあがってきないのではないかと思われます。(昭和43年5月27日)-134-