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概要

潮来の石仏石塔

概況一、潮来町の地理的環境と歴史潮来町は、行方郡の最南端に位置し、東は北浦をへだてて鹿島郡鹿島町、西は牛掘町、北は麻生町、南は常陸利根川を境に千葉県佐原市に接しています。町の北西部は行方台地の南部にあたり、地形は、北西部が浅い浸食谷をともなった洪積層の海技二O米前後の低い台地、南東部は、北利根川、外浪逆浦、鰐川、北浦の水に固まれた海抜一米から二米の沖積層の低湿地帯です。年間を通して気候も温暖で、このような環境が、この地方の歴史に大きな影響を及ぼしたものと思われます。町域内の台地上やその縁辺には、縄文早期の狭間貝塚をはじめ多くの員塚や、蒲生時代の遺跡の存在が確認され、それに続く古墳時代の遺跡も、北浦西岸の大生原台地上に二一Oおおう余基が現在する大生古墳群があります。開発にともなう最近の発掘調査では、この周辺から七世紀前後の住居跡が四か所発見されています。おう.かいた〈『常陸国風土記』には相鹿、大生、板久の里の地名伝承ゃ、板来の駅が置かれた記事があります。中世、武士の時代になって潮来地方を支配したのは常陸大按系の行方一族です。行方氏の祖忠幹は行方(麻生町行方)むねもとに城を構え、その子宗幹(景幹ともあり、屋島の合戦で討死)に四子があってそれぞれに領地を分与しました。第一子が太郎為幹で行方氏(後に小高に移って小高氏)、第二子が次郎高幹で島崎氏、第三氏が三郎家幹で麻生氏、第四子が四郎幹政で玉造氏の祖となりました。この子孫が俗に「行方四頭」と呼ばれ、中世を通して郡内に勢力をふるったのです。潮来町域のうち、潮来・津知・延方地区は、地理的にも近接した島崎氏の勢力下にあり、大生原地区は、同じ大接一族で大生城ほうおう(鳳恩台城)に居城した大生氏の勢力内にありました。このような情勢は、戦国末期の佐竹氏の統一まで続きます。江戸時代になると、潮来、津知、延方地区は水戸藩領に、大生原地区は麻生藩領に組み入れられます。水戸藩領の飛地となった潮来は、水運の発達にともなって、東北諸藩の江戸への物資輸送の拠点として繁栄し、仙台藩や津軽藩の蔵屋敷が設けられました。水戸藩はここに遊廓の設置を公認したので、人々の往来も多く、一時期、大変にぎわいました。一方、町域内の農村では、大規模な新田開発が行われました。徳島新田、大洲新田、二重谷の開発などは、その代表的なものです。当時の生産高は石高で表わされましたが、元禄一五年(一七O二年)の郷帳では、水戸藩領(潮来村・大洲新田・辻村・延方村・徳島・古高村・築地村)の石高は四六ヒO石余、麻生藩領(大賀村・大生村・釜谷村・水原村)の石高は一四九四石余となっています。文化面についてみると、潮来を訪れる文人墨客も多く、私一19ー