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概要

潮来の石仏石塔

潮来付近に在る石造物(1)木木Fし.,.、ーチ『党字大鑑』(名著普及会。種智院大学密教学会編)によって党字とはどんなものなのか、また、起源はいつ頃なのか、について簡-記してみよう。党字はインドでつくられ使用された文字であるので、この国の文字についてみてみなければ成らない。インドlアlリア人は、親縁関係にあるイラン人と同様に本来は無文字民族であったが、アレクサンダ!大王がイシドに進攻した頃(前一三二ハ)西北インドには樺皮に文字を書く習慣があった。しかし、この文字は党字(プラiフミl) ではなく、カロlシュティl文字である。この文字は、前五世紀以降西北インドで知られていたアラム語の影響を受けてをり、右から左に書く左行書きを特徴とするのに対し、ブラlフミlは左から右に向かって書く右行書きを特徴としている。カロlシュティl自然発生的に考案されたものではなく、当時西北インドで発達していたサンスクリット文法学や音声学の理論が根底にあって出現したと考えられる。このカロlシュティlは四廿拒以降インドから姿を消し、そして、プラlフミlが圧倒的優位に立ち、後代イγド文字の淵源となった。では、プラlフミーがいつの頃、誰によって発明されたのか。その時代は前三世紀中葉アショーカ王の治世下と考えられる。アショlカ王の時代は、政治、経済、文化の諸般において空前の絶頂期にあった。さらに、インドの大部分を支配した王には専制統一国家を支配するために、国家統一の必要から「法」(ダルマ)を全国に普及させ周知徹底をはからなければならなかった。このため、アショlカ王の命を受けた学者達は、先例のカロlシュティl文字の原理と当時の学問水準から、他民族の文字を借用せず、独自の文字をつくりあげた。一言加えるならば、中国に仏教が渡来したと推測される紀元前後の頃までには、さきのアショlカ・ブラlフミlは時代と地方差によって随分と変化していったのである。また、狭義の党語を指す場合、それは悉曇という言葉で代表されることが多く、悉曇という言葉は、書体としてのシュダマlトリカーを指す、と狭義に解釈される。字母は五一字、摩多十六字(内四字を別摩多ともいう)、体文三五字である。-31-