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概要

潮来の石仏石塔

もしれないが、これには二つの解釈が従来なされていた。その一つは中国の道教にならったもので、人間の体はさんしちゅう三戸虫というものが棲んでおり、これが庚申の夜には体をぬけ出して天に上がり、その人間の六十日間の行状を天帝に報告するという。そうすると大ていの人間は天帝の罰を受けるので、三戸虫が体からぬけ出さないように、一晩中睡らずに起きていなければならない。庚申待は別に祭るべき神も仏もないから、「庚申を守る」または「守庚申」といって、話しだけでも退屈するので詩や歌をつくり、管弦の遊びをした。貴族社会の守庚申は平安時代から始ったが、庶民信仰としては室町以降のことであろうとおもわれる。すでに民間にあった日待や月待の徹夜の祭が、修験道の影響で、庚申待になったものとおもわれる。しかもその中聞こうじんには先祖の荒魂をまつる「荒神」祭があったものが、音韻の類似から庚申に変化したものであろう。というのは古くは「庚申」も「かうじん」と発音したらしいからである。そのために庚申待の本尊を荒神の仏教化した念怒形の青面金剛としたものと、理解している。庚申の本尊の掛軸に、神式ならば「猿田彦大神」とし、仏教式ならば「青面金剛」とするのは、庶民の庚申講は、これを祭り、供養することによって禍を去り豊作を得ょうとしたことで、貴族の守庚申とまったくちがう点である。ま信広V庚申の神を「猿田彦大神」としたのは、申と猿の相通からきたことはもちろんであるが、猿田彦神は「大田神」ともよばれて、「田の神」すなわち豊作の神ともされる。庶民のあいだの庚申講は、後世になるほど豊作祈願になった。「田の神」は山から降りてくるものであって、田また、圃の耕作が済めば山へ帰る神と信じられた。したがって冬は「山の神」となり、春から秋にかけては「田の神」として耕作を護る。また猿は「山の神」の化身として山王ともよばれるので、猿田彦という神名は「山の神」と「田の神」の二面性をあらわし、豊作祈願の庚申講の神たるにふさわしいとかんがえられたのであろう。(15)土ぬW]'マ・9神-40ー地神・田の神・山の神・水神など。(1同祖道ネ申本項も五来重博士の著書『石の宗教』を引用して簡記する。道祖神の発生には二つの系統がある、とされる。一つは日本古来からのもので、実用につくられた石棒や石杵が宗教目的に転用されて陽石となり、礼拝、祈願の対象となり、道祖神信仰に発展する。造型的にも発展して、田の神像となったり、地蔵石仏になったりした。他の一つは、飛鳥でみられるような、渡来石工によって造られた夫婦和合の飛鳥道祖神石像の伝統によるものであろう、とされる。