ブックタイトル牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」

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概要

牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」

二百万年に及ぶ氷期の後、これまでの寒冷化を脱し上昇に転じた。縄文時代の前期(六千年前)を最高に、海水面がどんどん上り海岸線が陸地の内部へと入りこんでいった。今、私たちが註①目にする舌状台地については、洪積世後期下末吉海進によってできた海底が、また氷期となり海退で陸地化し、そこを河川が開析して谷をつくり、沖積世のこの縄文海進で海水が浸入して、あのような形となって残されたのである。現代に於いても、地球の温暖化が声高に叫ばれ、既に海水面が上昇して海中に投しようとしている、南方洋上の島があると報じられている。これとそれでは起因するものが違うので、同日に論ずることはできないにしても、原理的には同じことであるさて、先に縄文前期に気温が上がり海水面が上昇し海進があったと述べたが、縄文中期になると温度が徐々に下がり始め、後期から晩期にはそれが顕著になった。すると当然に、海進は止まり海退に逆転した。そのため地盤は、海面に対し、相対的には高くなり浅瀬にも干潟にもなり、果ては陸地になる所も出てきた。さしずめここ芝宿、横須賀の場合は、この時に砂州として誕生したと考えられ、海の底だったところに砂が重なり、そこがもっこりと隆起し微高地となったのである。このような気候の変動により、植生も変わり暖海性の魚介類も少なくなり、食生活に大きく影響した。青森の三内丸山で発掘されたクリは、DNA検査で自生でなく栽培されたものと判ったか、冷涼でみのらなくなりゃがて食料に不足を来たし集落は解体に追いこまあ〈れた。他の地域ではこれまで食べられなかったトチの実の灰汁を抜く方法を考え食べるようになった。「窮するれば通ず」という諺があてはまろう。当地の縄文人の暮らしを物語るものに、畑から出工する縄文土器がある。それこそ無数と言っても過言でなく破片の多さには驚き入る。住居祉の発見はないものの、今にしてこれだけの一3-土器が出ているということは、それ相当の縄文人が住んでいたことを裏づけるものである。ここより古い時代になるが、E陵上にある上戸の地頭内貝塚に行くと、南に面した谷をとりかこんでハマグリ、サルボウ、ヤマトシジミ、アカニシ、キシャゴ等の貝殻が、ぞくぞく露出している。こうしたことを見るにつけ、ここは海と山の幸がバランスよく、恵まれていたことが窺い知れる。ここはその後、弥生時代から古墳時代となっても、この砂州の上にくっきりと歴史の痕跡を残している。それはいくつかの前方後円墳と円墳で、少なくとも四基ぐらいずつはあったよう