ブックタイトル牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」

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概要

牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」

ました。私は後から一人で入寮した次第です。食事はご飯(米は少々で大豆、玉萄黍、大根等が多い)をバケツで持って来て、各部屋で分けるのですが、転校生のため私のところへまわってくるのは一番最後で、バケツに無くなってしまい、同室の方から少しづっ分けて貰いました。分けて貰うご飯は空気が多くて情けなさはこの上もありませんでした。当時としては止むを得ない事ですが、食いものの恨みは一生という言葉がありますが、そのとおりだと思います。焼け出されて牛堀の地で最初にお世話になったのが川崎甚さん宅でした。先代が石屋を経営していた関係で、その作業場をお借りして簡単な改造をし、六畳一間の生活をはじめました。雨が降ると、トタン屋根一枚、だったのでよく雨漏りがし、鍋・釜を吊して凌ぎました。全く惨めな生活でしたが、隣組の皆さん、地域の皆さんの暖かさに触れ何とか我慢出来ました。特に隣の岡里家(山田屋呉服店) のお祖母さん(故人)と星子夫人には家族同様のお世話を賜り、この有難さは生涯忘れることが出来ません。同年十O月に現在地にあった借家に移り、普通の生活が出来るようになりました。私も卒業後しばらくして香澄村役場に就職し、民生関係の仕事に携わりました。私自身の生活も容易ではありませんでしたが、戦没者遺族の家庭・海外引場者の家庭・戦災者の家庭等は困窮の極みでした。昭和二二年現行憲法の公布に伴い、社会福祉関連法律として福祉三法の生活保護法・身体障害者福祉法・児童福祉法が制定され、法律的には生活等の保障が出来たのですが、戦後の混乱時期のためH 絵に画いた餅μの時代が暫く続きました。昭和二七年戦没者遺族等援護法、翌二八年には恩給法の一部改正があり、以来戦没者遺族に国家保障が行われることになりました。その後も福祉の充実が叫ばれ、現在では多くの福祉関連法律が制定され、昔を知る者にとっては隔世の感を禁じ得ま-7-せん。その後は総務・教育・税務等の事務関係に携わりましたが、両親の病気のため昭和五八年止むなく退職しました。昭和三O年三月には良き伴侶にも恵まれ、(現在では毎日口喧嘩ですが)曲がりなりにも今は平穏な老後の生活を送っています。最後に学校給食に携わる方にお願いがあります。現在は飽食の時代、何でもあり、栄養面でのご苦労もあると思いますが、子供達の食べ物の好き嫌いをいくらかでも無くする工夫をお考え戴けないでしょうか。私の子供時代の体験から特にお願いしたいと思っております。