ブックタイトル牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」

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概要

牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」

私は姉とお揃いの紹の萩の花模様の着物を着、流線形の下駄を履き、そして弟達は白緋に絞の三尺帯をしめる。っきたての餅を重箱に詰めて、父を先頭にお墓に行く。その時は、祖父の妹も必ず迎えに行き一緒にお参りするのである。祖父の妹は関東大震災で焼け出され、祖父から実家の近くに少しばかりの土地をもらい小さな商いをしていた。私達兄弟はこの叔母が好きで、暇さえあればよく遊びに行ったものである。私達のために、いつも珍しい物を備えて待っていてくれた。震災で主人を亡くし、三人の子供を抱えて気丈に生きていた叔母は、私達を常に引きつけるものがあった。私が物心つく頃は上の二人の娘は家を離れて働いていた。その淋しさから幼い私達を歓待してくれたのかもしれない。そうして叔母との家族同様のつながりは、八十才で召されるまで続いたのであった。嫁して四十六年、今も暑い日差しの中に薄い紅色の花魁草が咲いている。数少ない、私の大切な花。何年も目にもとめず、心も通すことなく過ぎていった日々。子供達も巣立ち、ふと振り返った時、花が語りかけてきたなつかしい一場面!そこに登場していた人々、もう捕えることのできない風の様に過ぎ去ってしまった。関東大震災、またその後の東京大空襲で家族を失い、住まいも食糧も無い親族を家庭同様に囲んで生きた祖母や父母の姿は深く心に刻まれている。私もその精神を受け継ぎ、後世に残すものは何かと、深遠なる思いにかりたてられるのである。遠い日の西蓮寺市坂本照子(現玉造町西蓮寺)には、「常陸高野山」しらとざん称をもっ天台宗のお寺様がある。戸羅度山西蓮寺である。歴史旧玉川村出沼、の俗内ペU1Aは古く、延暦元年(七八二)最澄の高弟最仙が、桓武天皇の勅願により創造したといわれる由緒あるお寺様である。この寺で行う「常行三昧会」は、近隣の末寺の僧侶が常行堂に集まり、新仏の供養を兼ねて七日七夜(九月二四日1三O日)堂内を巡りながら続経する。これを地元ではH仏立てて全国でも珍しい供養である。又、学頭様(西蓮寺の坊さん)が、Hシ」一言ロつ本堂から常行堂に渡られるお練り行列は特に有名である。学頭様は立派なお駕龍に乗り、大きな朱塗りの傘を差し掛けられて白装束に身を包んだ担ぎ手に守られ、先頭に総代、次にお駕館、