ブックタイトル牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」

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概要

牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」

あり、持ち運びゃ片づけには便利だが非衛生的だ、というので使われなくなっていった。いろりおだやに続いてHHのある部屋もあった。いろりは畳いろり半分位あって、自在鈎が下がっていて、茶がまでお湯をわかしたり、鉄鍋で煮物や汁をわかしたりした。冬の夜をいろりを囲んでの一家団らんは、独持の雰囲気があり楽しいものがあった。茶の間土間に入ってすぐ上の部屋を茶の間といい一番使われる部屋で、ここは仏だんがあり、その上には大神宮様が和られ、家の主人公が先ず灯りをともし神、仏に供え物を上げて一日が始の祭礼など親戚の人達の集まる祝いのときや、庚申講・三夜講などお客さんが集まるときに使われたが、子供達は朝から御馳走をつくる気配を感じて、家の周囲ではしゃいでいたものだ。当時の農村は決して裕福とはいえなかったが、自然とうまく調和した生活だったと思う。家の周囲には色々な樹木が植えられ、常緑樹は夏の厳しい陽射しを遮り、落葉樹は冬のやわらかな日ざしを部屋の奥までとり入れるためであった。厚く葺いた茅屋根は夏の太陽熱を遮断し、冬は保温の役目を果たした。見非文化的に見える釜場の煙りは、実は木造建築を虫害から守り、無数にある縄の結び目を強固にするのに役立ったのである。-29-高温多湿の日本の気温は夏には耐え難い。真夏の農村の昼過まる。茶の間は名の通り家の者達のいこいの場であり、隣り近、ぎには外には人影はなく、明け広げた家の中は時どきすず風が吹き抜けていた。家の者はあちらこちらの部屋で、ゴロ楳の最所の人達との語り合いの場でもあった。部屋茶の間の仏壇裏側にある部屋は牒室となっていたが、家族の衣類などを置く納戸にもなっていた。中の間・奥の間茶の間に続いて中の間、奥の聞があるが、家によっては、座敷を広くとって、奥の間だけの家もある。この部屋は普段は使中である。外ではみんみん蝉が一きわ高く鳴いていた。やがて、大あくびをして親父さんが立ちあがった。二時半頃であろうか。そろそろ田の草取りの時間なのである。夏には快適な生活が出来る農村建築も、火には弱かった。関東大震災の火災と、太平洋戦争における焼夷弾攻撃によるもろわないが結婚式・七五三の祝・徴岳検査(現在の成人式)鎮守れる家は、どれもH 文化的住宅uとなっていったのである。さに茅葺屋根はすっかり嫌われ、戦後の復興期に盛んに新築さ