ブックタイトル牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」

ページ
57/70

このページは 牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」 の電子ブックに掲載されている57ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」

になっていたと思われる。香取神宮旧大禰宣家に伝わる応安七年( 一三七四)の記録によると、「午堀の津」と「島崎の津」があったことが記されている。「津」とは港のことであり、当時の宿は島崎城の宿場であると共に、北浦・鉾田方面への陸路の要路であり、加えて霞ヶ浦の内海をひかえた港があったとすると、その繁栄振りが想像出来る。中央より南方を望む芝宿に長国寺を建立した長国は寺領として約四町歩の平坦地を与え、その周辺に松を植えた。この松かどうかはわからないが、昭和の一0年代頃までは樹齢数百年も経たであろう大木が数本天にそびえていて、常陸利根川を渡る航路の目安となってnUF円Uいたという。また芝宿から宿へ向かうこの通りを「並木通り」と現在の宿通り呼んでおったが、あまりの大木となったため、付近の家の安全を考慮し切ってしまった。今では小字名に「並木内」の名が残されているのみである。宿の田園都市センターの所は、島崎城のあった丘陵の西の端にあたり、「馬の峰」といわれた所で頂上にお羽黒様がまつられであったが、センターの用地として削平され、現在は下のお不動様の脇に移され、お堂の中には寛永三年( 一六二六)建立の板碑が間られているが、昔からお堂の中に丁重に置かれたものと見えて、風雨に晒された他所の板碑などと異なり、保存状態が