ブックタイトル牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」

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概要

牛堀の文化 第4号 特集「私の昭和史」

芝宿、横須賀の地形についての一考察ー隆起砂州上に展開された人々の生活| A-可泉フE成夜越川の河口を東に向かって、潮来の町並みに続く市道が常陸利根川沿いに通っている。中央が旧来の国道で、この北側が国道日号線である。落ち着いたたたずまいの芝宿と横須賀の集落はこの中に在る。ここは一見して分かるが「砂州」が基盤となって集落に発達した所で、地質学的にも研究の素材として、注目されているものである。砂州の概況は凡そ次のようである。東西に二キロメートル、最大七百メートル、最小百五十メl トルの幅を持ち、高さは五メートル余も盛り上がり、全面が平坦面である。何故このような地形となったのか成因を探ると海水の流れがあり砂礁が推積したものであるとする推測はそれほど困難でなく、畑に入ると足首が砂に埋もれ、体をとられそうになる位である。それに地殻運動の隆起作用もあり、このよ註④ うに高くなったもので、ローム層下部の、成田層の台地からの註③・・・註②被覆は全く見えない。即ち、沖積世になっての微高地で、洪積世はその基底となっている。従ってこの微高地が問題となるも(表l参照)のは、主に形成の時期やメカニズム、海進時の海面高等であるが、本稿ではとりあえずこのような地形を造り出した経緯、成立の時期を組上に乗せ議論を進めてみよう。ちょうど二百万年前に始まり、一万三千年前に終わる「氷河時代」があった。その時北半球は三分の一も氷におおわれ、二万年前が寒冷化のピ1クに達した。日本列島の平均気温が六度前後で、現在より七度程低かったという。それは東京の気温が、札幌と同じだと思ったらよい。こうなると海面は百四Oメlトルも低かったので、津軽海峡も宗谷海峡もなく、対馬海峡は陸橋で大陸とつながっていたのである。ナウマン象の化石が、牛堀と麻生町の根小屋北浦町の山田で発見されているが、ナウマン象が大陸から北上し、生息していたのはこのころのことである。ナウマン象の化石を最初に発見したのは、ドイツ人の地質学者のエドモント・ナウマンで、明治八年日本政府の招きで来日し、東京大学の前身の開成学校教授であった。彼はまた、日本列島の構造線が新潟の糸魚川から静岡まで、中部地方を横断する、大きな溝になっていると発表し、「大地溝帯」「フオツサマグナ」と命名した。富士火山帯はここを通り、日本列島を二分する重要な地帯である。それはとも角、日本列島は途中三回の問氷期をはさみながら