ブックタイトルふるさと潮来 第一輯

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概要

ふるさと潮来 第一輯

五基(前方後円績なし)で総叡一二O余奉、うち前方後円墳九奉が古行在する。ζの中で最も密集度の高いのが大生西部古境群であD、更Kそのうちで最大のものが俗称孫舞塚(子子前)である。大きさは長軸七一・五米、前万部出血三二・七米、高さ五・二四米、後円部三八・一米、高さ六米を有する片耳式前方後円墳でるるととが判明した。ζの古拙明からの出土品は、土どめを目的とした円筒埴輸のほか、多叡mu形象情世輪-人物-mなど、尚人物中K長馬援を有するものもあった)。一須恵器、土師器のほか鉄器片などがある。尚大場氏は「ζの地が常陸風土記Kいう大生里で、村内の鋲守大生神社も地方の古社であD、ζの地が住音大生氏(オオは多、志言、大などK通ずる)即ち多色氏の開拓した地であるととが判明するとともK、との古墳群も同一氏族の有力者の奥津城と推定される」と報告している。ともか〈郷土K多叡の古州慣が膏在するζとや、近〈に鹿島神宮の存しき在するとと、また常陸風土記行方の条Kある「古老臼へら〈斯貨のみずかきおおやしま瑞垣の宮K大八州知らしめし天皇(祭神天皇)の世K東の.夷の荒ぶる賊を平けむとして建借間命を遺D給ひき」とあるとと左どからもとの地万の先住民放が次第K大和朝廷の命を受けた建倍間命等の武力討伐KよDその支配下K組入れられ、その一篠の強大念豪族がとの地方K有在した、というととも推定されるのである。とれK関しては水戸市史Kも「建倍聞を中心とする多色膝が鹿島郡から行方郡を経て那珂川河K到達し、五世紀後半から六世紀前半Kは水戸地方に進出したでるろう」と記載されている。いずれKせよ郷土周辺が大和朝廷の蝦夷征伐、東北開拓の重要な経過地と左D、常陸国でも批較的早い時期にその支配下K統一されてその兵たん基地的在役劃を果したであろうととは容易K想像できるζとである。四、律令制下の郷土且軍比駄の連合政権ともいうべき大和朝廷が、中央集権国家の確立をめだして断行されたクーデターが大化改新であD、ζの改新政治は地方行政組織の整備、班田制笑施などの新制度Kよって郷土Kも大きな変化をもたらした。律令時代とは大宝律令の制定以後約四OO年問、即ち奈良平安時代を総称するものであるが、とのうち地方K関係の大念るものを付記すると、まず園都里という地方制度である。-7-ζれは大化改新Kよってはじめられたものであるが、都皇の規定は改新の謡の中K「凡ソ郡ハ四十里ヲ以テ大郡ト為シ、=一十皇以下山里以上ヲ中郡ト為シ、三皇以下ヲ小郡卜為セ」「凡ソ五十戸ヲ里ト為ス」(但ζの一戸は郷戸と呼ばれ現在の三、四戸分を含む)との規定Kよって、それ以前の国造の支配から郡司、里長の支配する郡さて我が郷土の属する行方郡の里の制度K改められたものである。成立Kついては、常陸風土記K「古老の日へら〈灘波の長柄の豊崎の大宮に天の下知らしめし天皇〈孝徳天皇)の世突丑の年(白維四年六五三)に茨城の国造小乙下壬部連麻呂、那珂の国造大建壬生の直夫子等、総領高向の大夫、中邑幡織田の大夫等K請ひて茨城の地八豆、那珂の地七里合せて七百戸を創きて別K郡家を監〈」とある