ブックタイトルふるさと潮来 第一輯

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概要

ふるさと潮来 第一輯

行われたといわれるζ とから板米駅の廃止もそのような意味Kよるものでは左かろうか。尚同蓄には板釆周辺の海は海松、白員、蛤など豊かな海の幸K恵まれているとと、南の海に三四塁ばかタの洲があD香島行方の男女がことごと〈集まって、今の・潮干狩の様走行事が行われたζ と等の記事があるζ とから想像して、交通の要所としてのほか、住民にとっては生活の適地であD、季節Kよってはか念Dの人々の出入Dする行楽の地域でもあったろう。五、武家社会の展開と郷土中央集権的な律令体制も開墾Kよる土地の私有が認められ、荘園制の発達Kともなって次第K崩易してい〈。又ζ の時代の地方政治の混乱は各地K自衛上武装集固化したいわゆる武士団を先生させるにいたった。そして平安中期以降の常陸の歴史K大き念変化を及ぼすものは、一彼氏平氏を中心とするとの新興の武士階級の台顕であった。桓武平氏の関東進出は、信武天皇の曽孫高望王の下総介就任Kはじまる。高望王は常陸及び上総下総左どに広大左土地を開きそれを諸子κ分け与え、それぞれ常陸大像、下総守、鎮守府将軍などに任ぜられ各地K土着したものである。やがてとれら平氏一族は有名在、「将門の乱」を通して相争h、乱後は常陸大嫁氏が確固たる地盤を築いてその勢力を鉱大していく。そしてとの大縁氏の子孫が行方地方、更には郷土K支配権をもつようになるのでその略系を示すと次の様である。盛幹(吉田太郎忠幹(行方次郎)成幹(鹿島三郎)このように常陸各地に拠る大敏氏一族の繁栄は続いても、全国的Kは源平の争乱の世となD、保元平治の乱など曲折はあるが、遂Kは源頼朝Kよって鎌倉幕府が確立されてい〈。との漁氏政権下にあっても常陸各都K分封された平氏一族が、努力を保持し鉱大し得たのは平氏の流れをくみながら、争乱期Kいちはや〈源氏を棟梁として-9ーその支配下K入D、源氏との結びつきを強めていった結果といわれる。さて、鎌倉期以降郷土Kその支配権をもつのは常陸大嫁系の行方氏一族である。まず行方氏の祖忠幹は、行方の地(麻生町) K城を構ぇ、行方郡一帯を領したが、その子宗幹(源平合戦に源氏万として屋島で戦死) K四子あってとれが行方各地K分立してい〈。即ち第一が太郎正幹と称して小高(麻生町)K、第二が次郎高幹と称して嶋崎に、第三が三郎兼幹と称して麻生κ、第四が四郎成幹と称して玉造にそれぞれ城を構えて居住し、ζ れが所謂「行方四一蹟」と呼ばれるものである。彼等はとの地方の地頭職K任ぜられ、以後約四O0年間戦国の末期まで、とれらの族党が行方郡一帯を支配し続ける