ブックタイトルふるさと潮来 第一輯

ページ
25/86

このページは ふるさと潮来 第一輯 の電子ブックに掲載されている25ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

ふるさと潮来 第一輯

献金で占めたととはそれを如実に一ホすものである。(水戸市史中巻二)更K繁栄の一因をなした遊廓Kついても、正徳五年(一七一五)K蜘附卑AK九軒の遊廓が在官したが、その九軒の報告した遊興金の総叡が壱万七千両K及んだ(新荘桜涯氏稿遊廓史)という様なことが潮来図志K「常陸なる糊来の里は京都五丁街K左らひし廓なb、朝タの出船人船落ち込む答の全盛云々」の文章として表現されたものではなかろうか。しかし、ζの港町としての繁栄も、享保頃から前川が次第κ埋まb浅瀬となって入船困難となb、又銚子仲よb直接江戸入港の航路が発達したととKよって、次第K同船の訴も減少しはじめる。そして寛娃、安永の頃Kなると盛時Kは仙台溶からの廻米船だけでも年三00般をとえた入船が、全体で壱ヶ年一ニO綾ぐらいK減少したと伝えられ、込Kは蔵屋敷を崩ずるに及んで港町としての機能も失っていぐ。似し、後になって水戸藩の、逆送方役所が、小川〈小川町)ら潮来領の上戸村(牛堀町)K移転されるので、水戸滋南領方面の年貢米ゃ、江戸港邸周物資念どは糊来K集められ、前記の道筋を通って江戸送bされたζとや、小舟などの中継地としてはその後も或る程度の賑わいを保ったものと考えられる。い円、新日開発江戸時代の郷土の歴史で注目すべきものに、新田開発による新しい村落の形成があb、大規模なものだけでも対岸の新島の十六島をはじめ二重谷、大州、徳島などみな江戸期K開発された大集落である。ζれらの地域は、もといずれも長期間Kわたる流水の進んできた土砂が堆積して、洲状を口王した芦蒲の原野であった。以下二重谷、徳品、大洲Kついてその概要を記してみる。まず、二重谷の開拓の歴史は正保二年(一六四五)Kはじまる。(それ以前は糊来農民が草刈場K利用している。)即ち、との年、糊来村役人が代表して幕府K二重谷の開拓を願い出て許され、正保よb延宝頃までの約三十年間は新聞検地などもなく、単K海道上の名目で若干の銭を上納していたが、延宝二年(一六七四)幕府代官深谷喜左衡門の検地があhy、その時国高拾壱町七畝拾歩とされ、年貢米拾壱石と定められた。以後耕地は次第K増加を辿b、延宝頃Kは二重谷本田並びK新田を合わせて高四九二石となb、二重谷村という一村を形成し、更K明治元年(一八六八)には五百四十二石余と権大している。但しとの二重谷は地籍上下総十六島の一つに加え-15-られ、元日時十三年(一七OO)の国絵図改正の折常陸凶行万郡とな'/),ったが、その支配は天領として幕府代官の支配下kbかれ、糊釆曲反民の開発になるため名主は糊釆村庄屋が兼帯した。ζの地は家屋の建築を許さず、したがって二重谷村は存在するが、二重谷村民はなかった。後明治九年(一八七六)抑制来K合併され村有地となb、重谷組と称して椴来村民が所有権を有し、三年毎K他せんKよって、持団を割替るという特殊な形を続けたが、明治四四年(一九一一)二重谷組を解散して私有地K改正されたものである。(生田目豊之介氏稿本参照)。次K徳島Kついであるが、と、は江戸初期から豊富左漁場として近隣の農民が出入りし、又原野を拓いて耕地もできていたが、地理的