ブックタイトルふるさと潮来 第一輯

ページ
26/86

このページは ふるさと潮来 第一輯 の電子ブックに掲載されている26ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

ふるさと潮来 第一輯

に処々の農民が出入bしていたため、ζの地域の所属をめぐって争いも多かった。特K旗本新庄隠岐守支配下Kあった鹿島郡下=鈴木村(神柏町)と、水戸領内延万村の争いは激し〈、しばしば流血騒ぎを引起していたが、寛文年間K幕府の裁定Kよって水戸領K決定された。の七月二七日であった故、延ζれが寛文十二年(一六七二) 方村ではとの勝訴を喜び、記念として以来毎年七月二七日Kは村の鎮守社に角力を奉納するζとになhy、とれが延方角力の由来といわれる。との地域の本格的な開妬は、延宝二年三六七白〉からはじまb、延方村よhy開拓者を移民させ、屋敷、水路などの造成は村貨をもっでまかなわれたとも伝えられ、民K延宝七年(一六七九)K農家二O戸を移し、宅地五畝歩、舟などが支給され、地割の境K江聞を設け、江闘を前Kして東画一列K屋敷を構えさせたのが徳島集落の奉縫となhy、その形態は今尚残されている。またとの地の名称は、延宝三年(一六七五)福島を改め、徳島ム称するようKなったと伝えられる。(糊釆町教研連続のぴゆ〈水郷参陥)最後K大洲であるが、古老の伝えるととるKよれば、戦国末期の落成者がとの新洲へ土着し、漁と農の生活をはじめたのがその起bである。最初K開拓された地域はその起bを表わすようK、七軒島と称したといわれるが、ちなみK現在でもとの部落の東部を七軒と呼んでいる。そしてとの地域も元和年聞に在ると記録Kも「一金二分ト永二百文は申ノ大須野鋲制」とあるように税の対象とされ、一史K寛永年間Kは野銭も増して次の様κなる・(生回目豊之介氏稲本)請取丑野銭之事ノ金壱両者江戸判也右是丑ノ年大須野件以分請取候者也0~ノ、如件寛永三年知月十九日内原太右衛門⑮級久村名主百姓中右から、大洲部落の開発は、潮来などからの移住者κよって急速に進んだものと想像される。そして元禄期には石高もニO一石と増加し、その後天保十三年(一八四一一)Kは糊来村の所属から独立して一16 ー大洲村を形成するK至っている。以上、とれら諸地域の開発は、その時期K多少の差はあるKせる、郷土の先人達が長い年月、水蓄をはじめ種々の災窓口とた』かいながら、歩一少と築きあげた努力の賜であb、とれなしKは現在の豊か在郷土の形成はあhy得念かったとも考えられる。司、郷土の文化糊来が交通の要所であ-P、特K鹿島への道筋Kあたって、遊廓などの宥在したととは、また文人墨客の往来をもさかんにした。貞一字四年三六八七)芭蕉が鹿島詣の帰途門人の曽良、挑育らを伴なって、歌友自準亭松江(本間道悦)宅K宿をとb、「旅人とわが名呼ばれて初時雨」と詠んだのをはじめ、一茶の「三舷で嶋を立たせるいたとか左」ゃ、北斉の「潮来景色」念どはその例である。