ブックタイトルふるさと潮来 第一輯

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概要

ふるさと潮来 第一輯

いる場合が数多〈あ-Pます。潮来の貧重左文化財である貝塚を研究するζ とKよって、潮来のあると考える次第であhyます。先住人の生活文化ををよb明瞭Kするととは、現代潮来人の責務で以上八千年K百一る縄文時代をと〈簡単K 一通り述べました。八千年と云へば気の遠〈なる様念長い年月です。その間日本の縄文人は幼稚な稲荷台式土器や夏島式土器の製作からはじめて、原始美術的な火焔土器、陸奥式土器などの製法は知りませんでした。縄文中期、四、五千年前の世界を見ればエジプトでは同時代に、ピラミットと云ふ大土木事莱を迩行して居b、ツタンカーメンの像の様在すばらしい物もつ〈られて届bます。隣国支那では、銅鉄器の製作、文字の発明もされて居bます。た。私達日本の縄文人の文化の日比跡は、笑K遅々たるものであbまし縄文時代BC8000年ト一一一一一|年代表縄文前期織文早期縄文中期旧石器時代先土器時代BC 5 0 0 0年BC3000年BC10000年BC 2 0 0 0年l一一一一一一縄文後期縄文晩期西紀1年(B C 1 0 0 0年BCD3 0 0年約八千年縄文時代左の年代表は小林行男箸「女王国の出現」を参考にしました。三弥生時代時代は縄文から弥生へと展開するわけであhますが、弥生時代とは西紀前三百年頃よb紀元三百年迄、大体六首年聞の時代区分であhJます。ζ の六百年は、縄文八千年をしのぐ文化の大陸進があbました。その原動力となったのは、米作農業と金属器具が支部4b朝鮮経由で日本K輸入されたととにあると忠はれます。一八八四年(明治十七年)東京弥生町の向陶貝塚よb、縄文土器と違った形の土器が紘-P出され、その後全国からとれK似た土器がつぎつぎ発見され、弥生式土器と名づけられました。ζ の土器が研究の結果稲作K関係のあるととがわかbまして、弥生時代の名が生れました@縄文時代以前の経済は自然採集経済であbます。-21ー即ち山の木の実や時間獣、川海の魚貝を自然界から採集して食糧として参りました。弥生時代に入って米の栽培法が移入されて、農業経済の時代K進歩して参bました。米は南方から薩南諸島を桜て日本へ移入された説、朝鮮半島経由で波って来た説、楊子江辺の中支よhy東支那海を倣って九州へ来た説、等がありますが、何れKしましでも日本で稲作栽培をはじめたのは九州地方であbt必ず。その食糧としての俊秀性と栽培の容易在る為か、比較的短臼月の間K全国に普及した様です@その例としては弥生前期の稲作退跡には、支登遺跡(福岡県)唐古遺跡(奈良県〉等があbますが、約二百年後の弥生中期の稲作、遺跡の中Kは宮城県桝形巡跡があbまず。