ブックタイトルふるさと潮来 第一輯

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概要

ふるさと潮来 第一輯

私達の郷土は函の海K程遠く、ともすれば文化の波κ遅れがちであった。ζれが弥生時代の糊来の姿であると想像されます。四古墳時代糊釆の古績を語る時に先ず念品胴κ浮ぶのは、大生野原古墳群であ-Dます。私が考古学を研べて見たいと考えた動機もとの古墳であbます。大生野原古墳は何時頃造られたのであろうか、誰の基であるうか。とのこ点は誰しも知-Pたいととであbませう。前者Kついては、約千五百年前の頃造られたものであるうとの答へができますが、後者については明股Kはわからないのが真笑です。現在迄K考古学者達Kよって、日本中の古敏は数多〈発掘されましたが、古墳内部の石棺や、石室等K、埋葬者の名が記載されてあった例は一ケ所もあbません。造成当時は誰の墓と語hy伝ひられていたであbませうが、千叡百年の年月は、すべてを忘却の彼方K押し流してしまいました。古績時代とは弥生時代K次いで、紀元三百年から六百年頃迄を云ひます。ζの時代は大和朝廷が、現在の近畿地方を中心として、日本を征服予定し、統一王朝を確立した時代であbます。弥生時代K於て、農耕経済の飛躍は、社会文化の発展を促進した。地方地万に居た血縁部族単位の社会機構も、次第κ膨張し、大は小を併合して、四世紀の祭神天皇の時代Kは、大和朝廷が日本を統一したと歴史学者は述べて居bます。その時代K大和を中心として、高塚墳墓が造成され、その型式が各地方K伝へられました。支那の墳墓形式を真似て、勢威を誇って規模の雄大さを競ったのであろうかとも想像されます。大生野原古鎖群もとの時代κ、大和地方よbは多少遅れて、造られたものであbませう。古墳の発生原因ゃ、型式Kついては、考古学者Kよって、いろいろ論議されて居bますが、何はともあれ、地方象族の基であったととには間違ひありません。古墳の中K埋没されている石棺等の中Kは遺体と共K、被葬者の生前使用したであろう勾玉、王冠、〈しろ等の装飾品、剣鉾等の武器、銅鏡等の宝物が納められてあb苦す。古墳の外部Kは、土窃れを防ぐためと、義飾をかねて、埴輸がならべてあ-Pます。埴輪Kは円筒はKわや人物、家屋、動物等の形が種々あり、当時の生活様式を知る上K参考K左-Pます。行方郡ではzJV門4玉造町神州から出土した猿の埴輪は、国の重要文化財κなって居bます。大生野原古墳の子子舞塚発掘Kついては、明細なる発表が原治氏よhyあhyますので略します。一九六四年(附和三十九年)茨城県教育委員会発行の茨城泉遺跡地名表K載ってhubます糊来の古墳は左記の通bであhJます。稲荷山古検群潮来二二八の一山林前方後円判明三基円検四基立金古墳群糊来町立金一八四九円墳三奉山林新立古墳糊来町新立ニO六四の円墳後明古墳糊来町後明二三八"Jj検中辻古墳方墳土師器円筒埴輪糊来町中辻三二二