ブックタイトルふるさと潮来 第一輯

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概要

ふるさと潮来 第一輯

ひそ山の此方K潜んでいた決死の軍兵(原文H敢死之土)きしふぎして退路を断ち、奇襲せしめた。K盤を閉そない杵島曲に心を奪はれて岸辺に群がっていた国他共は備を立てるしとま暇すらなかった。やきぼろぼ官軍は逃げる者はん討ち、遅れるものは捕え、ζれを一時に焚滅ししたた。乙の時、賊を痛く殺すと言われて、今伊多久の郷と調うと風、土板記久vcの友所駅まヰlk:やされてレ、る。叉、常陸風土記に次のようK記載されているo『新治洲から南十星(二塁)程の所K板来村がある。近〈海浜K臨んでいる所でえきかうまや駅家をおいてあり、これを板来の駅という』と。えきばでんば駅家は孝徳天皇の大化二年(六四六)餓内諸国K駅馬伝馬を置こうしいたのが鳴矢で、大中主令制K拠ると三十里毎に一一献を置いたものはかである。古の一塁は六町であゐ。叉地を度るのKは五尺を以って一歩となし、三百歩を以って一塁となすと雑令げいあD、その例としては姶芥集(藤原笑著)に「自」京陸奥際行程三千五百八十七塁との記載がある。さがこうじん嵯峨天皇の弘仁六年(八一五)二月廃二常陸板来駅一と。叉、わみようしよう倭名紗K天正十八年寅(一五九O)板釆里を板久郷を(坂久郷)と改むと。反来は板来の誤りである。更K潮来と書いた事例を挙ぐれば宮本茶村の常陸部郷考K『案ずるK板来後板久K作る。元禄いたのみや十二年に糊釆K改めて、訓は旧の如し、鹿島(神宮)筏社潮宮たかくらげK拠ると云ふ。然れ共其潮宮は高倉下を祭るとあれば「紀果有花田剣於廊底板」の故事Kて板宮と称すべきK何故あDて潮宮と書いていたとは訓ぜし』と載せられている。2鹿島誌K『もと板釆と書きたるを、西山公(義公光幽)鹿島のいたのみやきょう糊宮あPて、常陸の方言K潮をイタというは輿あるζととおぼし〈てかく書き改められたり』と。五板来Hイタコは伊多Hイラゴの靴音であるととは、夕、-フ相通で、又市民は換音グ呉言グヌゴである。「イラ(苛)(砂)竺ヨFコサゴ、イサゴ、マナゴのコはとれである。例かど山はかぐ山とも言い、但馬のアサコ郡はアサグ郡といひ、三河国涯見都伊良古崎、伊勢のイラゴ島等の類例がある。いたのみや三、糊宮Kついて-26-いたのみや岡泰雄編鹿島神宮誌K拠ると、潮宮の祭神は熊野高倉下で、『神武紀K「武獲雷神対日難予不行而一一一レ下二予ギ国之剣日二師霊今レ当憧汝庫裏一{且二取而献一レ之、天孫高倉下日唯々而寝之明日上依二夢中教一開レ庫視レ之果有ニ蕗剣倒二立於庫底板一即取以進』とあるよりζの宮を板宮と名付けたるKやと立網法師はいへDと記載している。高倉下については、糊宮は神宮本社よP東へ十町、高天原への途上にある。四、其他「註」二三おおのおみひのあたえ-建借間ム叩H神八井耳命の再開で意富臣、肥直等の同族であるo東茨城郡飯富村の横曾根鹿島明神は背は建併一間神社といった。えうかしおとうかしZ夜尺斯し古事記神武巻K大和字陀々兄宇迦斯、弟{予迦斯という