ブックタイトルふるさと潮来 第一輯

ページ
43/86

このページは ふるさと潮来 第一輯 の電子ブックに掲載されている43ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

ふるさと潮来 第一輯

鹿行台地附近K人が住むようK在ったのは、今より数千年前の縄文式土器の使用K入った新石器時代の初め頃と言われている。しかし一説Kは、土器の使用を知ら念かった旧石器時代の末期(無土器文化)と呼ばれるとろの遺跡や遺物(石器、人骨)の発見K伴つて考古学界の話題と在っているととは衆知の通りである。しかし念がら現在、考古学上の常説として縄文土器時代の文化かいづこらであって、少念くとも七・八千年前後どろ、初めて人類が何処よりか此の地方Kさすらい来えって、自然採集経済の生活を営み、台地の密林を背に三方を海河K固まれたζの地方は、狩猟K漁出初κ、定めし彼等に太古人の豊か左生活を保証して〈れたであろう。とうして縄文文化時代の歩みK、何千年の歳月が、きわめて緩慢K重ねられて行ったようである。次いで、大陸を隔て西日本より波及し来たった農耕文化K同化され、弥生式土器使用の時代K入p、農耕生活は人を土地K定着せしまた生産物の蓄積をもたらし、次第にその集落Kは首長の発生を見るに歪hy、社会性の端緒はめる結果と左hy、そして集落を形成し、開かれて行ったのである。弥生時代よP急速に文化の進展は速度を増して行き、小国家の分立よhy古境時代へと移行していった。さて、それら上古の住民は、如何在る人達であろうか?そして我我との闘係について考察すれば:::o旧説には縄文式土器の使用はアイヌ系叉はコロポツクル族系であり、弥生式土器の使用人はいわゆる大和民族の祖先Kあたる説が信じられていたが、最近、清野博土の体質人類学研究Kよる石器時代人は現在の日本人と同根説と、浜田博士の考古学的見地κ立つ縦文式、弥生式の両土器の一元説が学界K於て認定されると乙ろと在った。す念わち現日本人説が承認されたのである。されば我国石器時代の住民は、南方、大陸、北方より、いっと左〈渡来した各種民族の混血Kよる既K揮成されて居たもので、それが今日まで言えるのである。由来、闘東の文化は弥生式文化のみ念らず、古墳文化も中央大和に発し、歴史時代K入つでも常K西日本の文化の東漸Kよって発展して来たのである。第三節民族社会の成立自然採集経済の縄文式文化時代の生活から脱して、農耕生産の弥-33-生式文化の時代を経過すると、社会の組織や人のくらしの上K大き左変化が現われて来た。先ず各部落K勢力者が首長の座Kっき、ζれまで母性が中心を念していた家族中心制度は崩壊の機に入り、父性が家長としての実権を持つようK念D氏族社会への成長に拍車をかけ、やがて地方豪族の誕生を見て全国K小国家群立の様相を呈するK至ったのである。原始社会は血Kよってつ左がる同族集団であって、いわば本家と分家が出来上った集落K始まるo乙の集団が氏族であって、その長うじのかみうじびとを氏上と言い、その人々を氏人と言った。そして祖先神を祭って崇拝し、氏族の政治はその祭神の意志命令と走ってその祭紀を大き念重要行事とした。