ブックタイトルふるさと潮来 第一輯

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概要

ふるさと潮来 第一輯

かような氏族よれY成る大小の豪族は、その強弱Kよって併合あるいは討征されて、更K大き在地方国家が出来あがっていったのであろう。そして遂K大和朝廷なる単一国家K統合吸収されたのでるる乙れを我が鹿島・行方地方Kついて考研すると、いわゆる東国開拓のため外来東進の大氏族がζの常総地方K進出蕃厨して、努力を‘鉱大するにつれ、土着の小氏族をその傘下K統合していったものらしい。即ち、常総地方は西日本よhy進出して来た出雲族や天神族の勢下Kあって、常総境辺げいは香取・ぬ島の両神宮を中心K天林系の中臣氏が蕃魁し、東国開発のたくましさに、土着氏族は乙とどとく帰服させられてしまった。訪「古語姶遺」Kは天照大神・一一皇産霊尊皇孫をあがめ養い、降して豊葦原中国の若となさんとおぼし、的て経津主神・武愛槌神を東固に遣わして駈除平定せしむ、とある。前者が香取神であD、後者が鹿島神であるが、ζの衡が常陸の大族中臣氏と見て誤りは念かろう:::。第四節古墳時代さてζの鹿行地方には、どの程度の小国家があったか、とれを詳かに知る乙とを得左いが先般当地の古域研究家である窪谷章先生の研究発表の通P、乙の地方Kも叡ケ所の小氏族の首長Kよって統治されていた小国家が存立していたζとが、その古検の規模と形体によって知るととが出来るのである。うじめかみ大和朝廷K統一された地方豪族は、依然として「氏上」を中心とした氏族集団で人民と土地を領有して君臨する地方豪族の本質K変うじのかみただ違うととは「氏上」を通じて朝廷K仕える乙とと、りは念〈、租税を納めたり、労役、箪役km服さねば念らなかった。中央朝廷はその代り、ζれら氏族の首長を過する意味で、その家おみむら壬のたいおびと柄の高下K応じて、格式を与えたのである。即ち、臣、連、直、首みやつ号』円ひとかばねしゅう造、史、念どの姓を授けられた。ζれが代々世襲されて、のちK氏姓制度の政治組織を構成する結呆となった。おみむらじ智天皇から刷れた氏族が唱え、⑫は天皇以前の神の子孫が称しかばねしたがってζの二つの姓は朝延K直接参与する者で最も有力な氏族であったo威恥地方豪族の有力者K与えられたもので、地方行政Kくにのみやっこ当った国造K特K多い臼在とあがたねしいなぎみつことものみやっこ↑意は県主、稲置の獄K多く、電は職業部の長で伴造氏族が多く、寸をた帰化人系が半叡を占めている口応神天皇の時代から、我国の産業、各種工業の発展は、ζれら帰化人の貢献によるもので、⑧の姓が授与されたものであるU(姓氏家系大辞典研究)古柏引は、ζれら首長が世襲したそれぞれの小国家群を治めていた氏族の首長の墳墓で、その規模は、その勢力状況Kよっても呉左つている。ζの時代の地方氏族の首長は、死後の世界K生命の延長を信じ、その富力と権力K応じて高塚古績を築造した。もっとも乙の習性は弥生時代の末から行なわれていたが、特K豪族と大衆との階差が極度の間隔を見るようKなった四、五世紀頃が品取盛期時代でるる。