ブックタイトルふるさと潮来 第一輯

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概要

ふるさと潮来 第一輯

中期の古幼Kは「前方後円相引」が出現するが、驚〈べき壮大友ものにして、ζのかげKは庶民や奴隷の莫大走る労働力が提供されているととを想うとき、いかK大和国家の勢力が地方に伸展してきたか知るととができる。そして巨大在る古州明文化は当時の支配階級の貴重左る生活文化でもある。注聖徳太子Kよる「大化改新」の湾葬令も、厚墓制度が庶民の疲幣を招釆し、国力の消耗を物語るものであζうした首長らのる。との古幼群は、中央政権の大和地方は別として、関東K於てはケブロックに集密している。即ち、北は上野(毛の国)、南K上下総(総の国)、東K我が常陸(今の石岡を中心とする)げい多〈見られ、持大な古墳群から地方国家の面影を偲ぶ乙とができる。訪か〈てζの三国は(上野・上総・常陸)は大国として親王自rs、からをして国守K任じ、大守と言った。ζの伝統は武家社会Kも及び、上野町寸、上総守、常陸守の名称が無い所以である。との三国の大守の親王は任地に赴かず臣下を派遣し祭政を司どらせた。乙れが介であって、ζれを三介と呼んだ、上野介、常陸介、上総介念どはとれK基〈ものである。第五節常陸風土記「風土記」とは地方のととを書き記した書物、と一言う意味で、風俗記、名勝記、名産一記念どKもわたる地方誌と言う意味であろう。「常陸風土記」の写本は「常陸国司解」と題し、「常陸国司解ハ害名ナカリシヲ以テ仮hyニ回目頭ノ語ヲ採ツテ題名シタ斗ノミ。然レドモ本書ハ恐ラク常陸風土記ナルベシ」という附築がある。「解」とは地方国庁よD中央官庁への報告公文書であって、7じ明朝の和銅六年(七一一一一年)の中央官命K基づいて地方国庁で筆録編集して報告した意味での風土記である。南ともながれうみ西は並K流海北なめがたこおり「行方の郡」「東ぅばらきこおりは茨城の郡なhy」ふるおきななにわながらとよさきおおみや古老のいへらく、難波の長柄の豊前の大宮あめのしたしろすめらみことよみつのうしうはらきくにのに叡字しめし天皇のみ世葵丑の年、茨城の国しようおっのしもしなみぷのむらじまろおおけむみぶのあたいおの造小乙下壬生連麿、那珂の国造大建壬生直夫こらすべおさたかむこまえつぎみなかとみのはとりだまえつぎみたち子等、惣領一一向の大夫、中臣幡織田の大夫等こうばらぎくにやさとなかくにななさとK議ひて、茨城の地の八里と那珂の地の七里一あわななももへあまりさこうのみちけお5とを合ぜて七百飴戸を割きて郡家を償けり。うなめかたこおりいゆえやまとたけるすめらみことあめした-行方の都と称所以は、後武の天皇、天の下めぐりみそなうみことむこれ巡狩はして海の北を征平げたまひき。是K此くにすすなわつきのしみずいでまの国を経過き、則ち槻野の情泉K頓幸し、水のぞあらいさきわK臨みてみ手を洗ひ玉もちて井を栄へたまひなめがたさとうみあたましみずき。今も行方の星の中に存hyて玉の清井と調さらみこしめぐあらはらおかいでまみけつものふ。更K車篤を掛らして現原の丘K幸し御膳たてまっすめらみことよものぞともびとを供奉Pき。時に天皇四を望みまして、侍従かえりみこしとどたちどまを一回てのりたまひし〈、「輿を停めて俳個hyあのぞみみくまわたまじゅりたがを挙付て鴎望れば、山の問、海の曲は参差もこよみねほとりたにはらて委蛇へpo峯の頭K雲を浮べ、政柑の腹K目レ、