ブックタイトルふるさと潮来 第一輯

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概要

ふるさと潮来 第一輯

寺小屋として代用教員として清水三息先生を雇ふ徳島治革について延方郷校つし、抑々延方郷校の起源は、文化の初期延方村曲松の人、井村松亭(通称水戸屋先生) が、当時江戸で塾を聞いて居った、加賀の藩士沢田キ絡先生を招いて、延方村片岡池の辺D内田山の箆K塾を開き書を講じた乙とから始めたのであります。其の后JT絡先生の塾は次第に発展して来たので当時水戸藩南館の郡宰小宮山昌秀(号はぬ軒)が、延方村の人小峰京蔵、高田貞蔵、、辻村内藤伴蔵等と柑謀P、教育奨励の為め内田山上K、孔子霊を配る聖廟を建立したのであります。出帆軒の教育K対する識見もさることながら、郷党の熱意もまた偉大念ものがあったのであります。このことは今を去る、一六六年前文化四年九月(一八O四)のζ とであDます。後にこれを改築するKあたり、水戸藩主、徳川斉修公(哀公) に申請したところ、大いK喜びその改築を狐軒K委ねられたのであれyますo猟軒は、郷党よP資金を集め、藩よりの補助とムロぜて実K一二ヶ年を費やして豪壮華麗念孔子廟を建立したのであわyます。(筆者は徳島古老)て立野司の五大字の掛軸を神位としたのであDますが。後文化十四年(一八一七)哀公親筆の「至聖先師孔子神位」の位碑を賜ったのであPます。改築以前の仮聖廟は、辻村恵雲寺K移転し、七面堂として現存して借り、改築后の廟は学制発布后明治十二年(一八七九)辻村K売却移転し、二十-52-三夜専の堂宇として現存して厨Dます。聖廟建立后聖堂学校は益々発展し、江戸後期の教育施設としては、江戸湯島の聖廟、足利の厄科学校、と左らひ、日本三大聖廟の一っと称せられ、都尉呉の創設であったと云はれて借りました。現在県内史跡として、最高峰を占める弘道館の創設に先立つ乙と笑に三十有余年と云われ、水戸藩内幾多郷校の先駆をなして借ったのであPます。此処で、水戸屋先生の人と為hyを簡単K申述て置きます。先生は延方村曲松井村長作に生れ、同郷の水戸屋に養子とをる。井村伯毅名は剛、通称長兵衛、号を松亭と称し、幼にして読書を好み、江戸K校の主な建造物とし、山箆より中腹κかけて教場群を配し、其の偉それよD内田山は聖堂山と呼ばれるようK左P、山上の孔子廟を学上り、北山、通称水戸屋先生とし容は全〈整ったのであれyますむ初め哀公よhy賜った「至聖文旨王」山本先生K師事し、沢田平絡先生等と共K学んだのであPますo後郷里K帰夕、易業、塾等を聞き、て、地域住民に親まれた人であPますo平絡先生諒は弘道、通称平