ブックタイトルふるさと潮来 第一輯

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概要

ふるさと潮来 第一輯

校出身なのであhyます。沢田先生姓は、もと草野、平格先生に其の才能を認められ沢田の姓を授けられ、沢田弘斉として、古一局の地に医業を聞き、名医として大いに活躍され、各地Kエピylドが残さ集rh努めた結果、郷校唯一の孔子神位、そして若干の蔵書等も発見されたのであDます。然るK、第二次世界大戦の勃発KよD惜し〈も中断したのであbまれて居Dます。現在近隣の沢田の姓はとれが始めとなったのであPす。其の后昭和二十年八月十五日終戦を迎えるに当p、山登美樹氏が、孔子の位碑を終戦処理から免かれる為め、洲崎地区ます。其の学徳一品い平絡先生も年をとPましたので、養子K、東茨減税吉田村の鈴木義徳の三男格介を迎えたのであPます。万延元年正月十五日(一八六O)平絡先生が七十六才にて病没しましたので養子裕介、其の業をついだのであDますが。学徳は養父平絡には及ば左かったらしく、その為か遠〈から通った生徒遥も、次第K遠ざかp、叉其の頃潮来K宮本茶村が塾を開き、久保木幡竜も学校から退くK及んで、さすがの延方郷校も衰退していったのであDます。明治五年学制発布K伴い、郷校は延方小学校の分教場となり、格介先生も其の教師と走られ、叉明治十年本校を延方の中心地、上の須賀に創設されるK及び、格介先生も本校に転じ教被をとったのであPます。世の変選と共K南領の丘内田山の山上より中腹、畿Kかけて、其の偉容を誇った、わが延方郷校も廃校と左hy、校舎は曲松の花見氏K売却移転、叉書庫は曲松の、一角田氏(屋号木の下屋穀倉として現存)に売却移転、蔵書物件等も流離散供し、時遂の波間K消えてしまい、僅かK辻地区二十三夜尊の堂宇が往時の夢を止めて居るKすさないのであれyます。其の后七十年ζの旧跡は世人の-話題の片隅K残るだけで忘れ去られつ』あったのでしたが、昭和十五年時の村長山沢喜兵衛氏を中心に時の小学校長井村武遥先生等の尽力で聖廟顕彰会が発足し遺物の蒐時の村長西普門院K移して置いたのであDます。乙のζとを知った時の町長藤岡鉱二郎氏が、とれを嘆き、一日も早〈世K出すべきであるととを説きまたかねて乙れらのことにつき深い関心と興味をもって居った私が当時潮来町議会総務委員長をして尉た関係も利し各方面K升走し昭和三十二年K延方聖廟顕彰会を再発足させ前記山沢喜且藷氏ぞ会長とし会員相互協力によりとζろも同じ松餓のもと、内田山の中腹K顕彰碑を建設し、哀公親筆の「至聖先師孔子神位」の霊位を収め、文学博-54ー土塩谷温先生の筆になる「禽世師表」を碑の正面K刻し、台座碑文は本事業先達の井村武達先生K、蓄を会長の山沢喜兵衛氏K依頼し悩和三十四年四月十九日除幕式を挙げ、往時を偲ぶよすがとし、そして次代を托す子弟数台えの緯益を誓ったのであります。教育の忠糊や施策は時代と共K変るとしても、その深奥は人間相互の心ゃ、魂の交流の裡K決定されるといふζとは、万世に渉D不易であると聞いて居Dます。現在建設中の県立潮来高等学校がζの由緒ある先賢の魂のふるさとをその敷地として選んだζとは、笑K意義深いζとで心から喜びrh堪えません。潮来町郷+前窮究会副会長(筆者は前潮来町助役潮来町搾化財保護委員)ふるさと晶来編集委員長