ブックタイトルふるさと潮来 第一輯

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概要

ふるさと潮来 第一輯

(一)ふるさと潮来第二次世界戦争が終結するまで町村役場Kは町村勢一覧といふ小冊子が備えられてゐました。其一覧Kは最初K其町村の地勢及泊草が記されてゐました。延方村の地勢及び治革延方村は東は北浦を隔て』鹿島郡K対し南は一義務水の向谷(丙号地)並K徳島K限p浪逆浦K臨み西、北は津知村、大生原村とに堺する郡の尖端Kして突出した半島形の村である。フ風土記を按ずるに古高村の延長である乙とが分かる古高は其昔、布ツナサト都奈の塁と称して丘陵起依森林叢を念して原住民族の巣窟で同時に叉I也方部落の発に祥安ァの婆Jべ土也台うで、.も吉tあ前r:つのた津。スカスサキ須賀津、洲崎津念どhあるは旧史(郡郷考) 皆それであろう、延方の名称は地勢上延潟より出たものである。佐古崇衿の朝、行方国造K帰し天長年代よD親王の任国と念る、即ち葛原生を太守とされた。天慶以後常陵大像の領とな-P応永中平良望七世島崎長幹之を領ナ天正十九年島崎氏亡び佐竹義宣の領と在った、慶長七年佐竹氏割引を出羽K移してから幕府K属し島田治兵衛を以て代官とす、同十四年徳川頼一房一水戸K封ぜられ其領地と念る一花禄中徳川光幽の時古高村、洲崎村、須質村を併せて延方村とした寄す西山登美樹明治元年改めて水戸落と在P同四年廃藩置県に方hy新治県の所管K移P同八年茨城県K属す。本村は水戸領時代よD十組K分れ即ち須賀、曲松、古高、小泉、新宮、下回、洲崎、束、西、徳島K区分された。後明治十二年郡区町村制改正十組を十区とした、徳島新田は漸次移住者を増加し大正六年一区を設置して福島区(米島を含む)とした。註一覧は各地域で作製したもので時K誤P念きを保し難〈従って其内答を再確認せねばなPませんから皆さんの御高正-55-を期待いたし創刊号を祝ひます。鹿島誌(鹿島町教育会編)よ!?今から約六O万年位前、現在の関東平野は海の浸入があって東K向いた丸い入江K在った。茨城県の山岳地帯を除いた常総台地、常総の平野はすべて此の海の中K含まれる。火山灰の地層の上K海成の砂層が水平K堆積するわけである。此入江は古東京湾と呼ばれてゐる海で東の口は鹿島澱であP筑波は岬、鹿島は海底Kあった。湾口は初め房総半島のあたりで東向きだったものが段骨北K移動して九十九里浜、鹿島灘方面と変化した。其の時の海の化石が特K沢山採取される所として有名左のか成困層