ブックタイトルふるさと潮来 第一輯

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概要

ふるさと潮来 第一輯

義民今泉覚治郎略伝鹿嶋都徳宿村の右族山K彦左衛門の三男K生る。延方村豪族草分長百姓今泉新右衛門信安の賛婿として養はれ今泉家を継ぐ小よD学を好む性剛直果敢年十六笠を負て江戸昌平寅K学ふ南軒と号し学業大K就P史典K通じ尤も詩文K長ナ。明治六年の秋議雨甚だし〈利根川其他鬼怒小貝の各川氾濫し延方の耕地も殆んと冠水し収穫皆無に陥P悲惨極P左しo覚治郎等深〈之れを嘆し、村民と相謀り免租の運動を起し凶荒の状を具陳し県庁K哀訴嘆願した。然し此の年は地租改正の時Kも有D各地Kも各種の運動農民一撲左ど勃発しあるを以て却って之れを騒優罪K問われ訴願は却下となり且つ刑は禁鍋三ヶ月加るに百打ちの答刑を受くるK至って遂げ仏此の運動は不首尾K終る結果と在った。然し覚治郎もとよP不焼不屈の精神止む事左〈刑後も幾度と無〈上書して県政の非を鳴らし、其の苛飲詠求を弾劾したo其の結果翌年四月Kは免租の通知有P一村初めて鼓K愁眉を開き安して生業K就〈事を得た。明治二十六年三月推選されて村長と左るや真撃常K上下の聞に相開旋し大に村政ア改革し最も力を治水事業に注き幾度と無く堤防築造の儀を沼市庁K申請するも許るされず、遂に意を決して村民と協議の上幾多の弾圧にも屈せず、昼は村治を所理し夜は自ら陣頭K立ち夜掘り工事まで指輝し総べて私財を投じ臥薪嘗胆遂K築堤の大業を完成し治水百年の大計の礎を築いた。故K村民の氏を見る事全〈慈父の如〈其の徳は叉近隣の子弟Kも及んだ。夜は燈下K孔孟の学を講じ大K地方の文教Kも貢献された。(塾称は正文堂)斯くして民の日常は(昼は)村政の改革其他百般の人事Kと全〈私生活を厳hy見るの暇は無かった。明治三十二年十二月三日偶々二竪ノ為めK現職中K繁る。行年五十六才挙村哀慕慈谷爽K服するが如〈村葬の礼を以て之れに報し先宝の次K葬る。猶翌明治三年十二月三日一周忌K際しては村民協議の上其遺徳を偲び普門院の本山長谷寺に申請し追溢号許可を得て(実相院殿賢篤道玄清浄大居士) の法号を賜る。測量製図家関沢四良衛門洪翁先生略伝家の系譜K依れば関沢家は一品舎人親王九代の末北町清原高親十二代-59-の孫景一局と云ふ人が関沢家の大祖で有る此の人が下野国河内郡関沢の郷を領し地名を以て関沢氏と称した此の関沢の郷は関堀の一部落で宇都宮を去る北一塁許Dの所Kして今も錨現存じて在K元禄年間其の再開定衛門と云ふ人が古高村に土着し居宅を構へて帰農し之の地方の開拓K力を効されたので有る今も宅地は現存して在り内神の稲荷神社は毎年初午Kは祭杷して居る而して此の定エ門なる人が村の長百として今の地野中の地K移住し此の地方開拓に努力され野中東堀江聞東西約三町歩許り開田され今は美固化して猶四良衛団と呼称されてゐる此の人が定衛改名四良衛門と称し四良衛門としての第一代の祖である弥来代々四良衛門を継承す第六代四良衛門が則ち地図を作った洪翁先生Kして名は延莫幼にし