ブックタイトルふるさと潮来 第二輯

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概要

ふるさと潮来 第二輯

は凶明治二一年ご八八八)市街IJ町村制凶月K至夕、を公布して近代的な地方行政の制度確立をはかるととにした。そしてとれを具体化するため、同年六月K町村合併K捕する内務大臣訓令4空発したが、とれκ「町村制ア施行スルニ付テハ町村ハ各独立シテ従前ノ区域ア存スルヲ原則トスルト難モソノ独立ノ目的ヲ達スルニハ各町村ニ於テ柑当ノ資力ア有スルコ卜又肝安ナリ故一一町付ノ一匹域狭小若クハ戸口唾小ニシテ独立自治ニ耐ユルノ資力ナキモノハ之ア合併シ・テ有力町村タラシメザルベカラズ」と町村合併の方針を明らかKし、また「町村ア合併スルハ其資力如何ア察シ大小広狭其宜ア竜リ適当ノ処分ア為ス可シ大凡三百戸乃至五百戸ア以テ標準卜為シ猶従来ノ習慣ニ岨ヒ請頗ア酌量シ民憎ニ背カザル」とあって、町村合併の標準をも示している。との訓令が出されてから町村の合併は急献に進行しア要ス(一八八九)茨城県陀ないても明治二二年僅か一年足らずの短胡胡K、画胡的左大合併が実施され、大きく近代的な地方制度の確立がはかられたのである。三月までの・まず潮来村と大洲村が合併して潮来町が誕生した。(との時郡川では玉造、麻生、潮来の三町が成立)旧制来村は当時戸説、人口、資力も独立に十分であったが、ζの当時の郷土の州一安を記すと、旧大洲村は独立の資力もなく、もと潮来村より分村した村であ夕、た明治五年以来は同一行政一区内Kあったのが合併の埋由である。町名はすでK広〈知られている削米を称するようになった。次K辻村、築地村が合併して津知村旧両村は合計しても戸叡二九O余戸で標準両村とも富裕で独立への資力まが生れた。規模K達しなかったが、もあったので合併した。向旧辻村は築地村より分離した村であり、昔との地を津知と称していた縁故があるので新村名を津知と称するようKなった。延方村は当時戸数六六O余戸、入口も三七OO余人で時曜をはるかK超え、した。資力も十分あるので合併せずK一村で独立釜谷、大賀の四村はいずれも小村ト水原、大生、で独立の資力はなく、hノ江戸時代はともK麻生藩頒であこ八八四)以峰、同一連合区域内K あって行政区白を同じ〈していたととが合併の岨由で明治一七年ある。またとれらの地域が音大生蛸K『属していたのでその郷名、及び旧水原町の原をとって、新村名を大生原村と称するようKなった。以上Kよって郷土は附和の新町村合併前の姿となったが、との時の町村合併は従前の合併が経貨の両約、負担の軽減などの目的で行なわれたのK対し、旧来の自然集遁的町村を全面的K再編成して、有力在地方自治体を組械して、近代的自治行政の担当者としようと