ブックタイトルふるさと潮来 第二輯

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概要

ふるさと潮来 第二輯

しい声で終日鳴きつづげ日暮のタモヤの中よタクイナの物色たたくような鳴戸にて一日が終るのである。浜の岸に沿って東よhy西に向って一本の道が続き人家はとの道を前にして並で建てられどの家も南を向いている。道の所々に柳の木があhy里の中央大柳のある家が里長の家で里人はこの家を浜の長者と呼んでいた。大方の家は堀立の藁葺屋根で屋内には床が無く土聞に霞やカヤを厚く積みその上に廷を敷して起居していた。長者の家には丸太の床に蒲涯を敷いた座敷があhy本屋の他に幾棟かの納屋があった。長者は庭先に太い長いー丸柱を立てζの柱K太陽の光が差す陰の位置Kよhy時を-計hyo板木によりて時を里この板木は時を告げる他に里人に集合出水や他よhy集団Kて襲いくる賊団に人に知らぜた。を知らぜたhy。備いる醤板の役も兼ねていた。里人の生活は半農半漁で生計を立てていた。長者の家げいは大きな引網があhy魚を一時κ多量K取っていた綱引には里人がかタ出されその労力の代として魚の配分を受付る者と。自力Kて漁をする者とがあった。これらの魚は喰った他は干物や塩漬Kして必需品との交易の資Kした。又引潮の浜には大小様々の貝類が棲息してhubζれを取っては交易の貨にした。農業は米作が王で土地が肥いているので肥料をやらなくとも稲の生育はよかった。住民は農漁双方の収益で生拍は山一旦かで又平和郷でもあった。只土地が低湿であったので一度洪水があると米の収穫は皆無に近くかかる年には漁Kよって生活を支いていた。里には木造の舟が無かったので竹や丸太を組合した筏があった。筏が無くては漁も農も出来なかった里人は筏による水運の技にも長じていた。貢米積取に来る木造の官船が出入するのを見る度に木船の必要を煽感しでも技術と資力とで作るととが出来なかった。筏は容易に作れるが安全性と運行度が越く長者の貨力にて一円ーも木造船を作るととが出来なかった。度々官船を見て8いるうちK筏の改良が必要となhy種々工夫の結果筏の上に板を並べた筏が工夫された。これを里人達は板舟と云ふょうKなった。浜に沿った上の里や下の皇よDは板舟KV4hy櫨々の土産物が水運され岡の里よhyは人の肩K或は馬KよD聞の産物が運送されてζの里が水陸物産の交易の場となタ知らず知らずのうちK交易の一巾が立つようになった。交易品は板舟によって水運される初貨が多く市の交易は五日とか八日とか日阪を定めた市で棋〈常量的な市であった。乙の原因は板舟が風雨や出水等のため水運が中断され日限の市では水陸靭民の交易K不便を