ブックタイトルふるさと潮来 第二輯

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概要

ふるさと潮来 第二輯

生ずるために常設の市となった。との里が水陸物産の交易中心地となっても里には地名が無かった。里に名が棋いことは市K集まる人達にも又土地の人達にも不便この上も無かった。板舟の先着は年毎K4タくなhy板舟の往き来が盛になる様を浜の人も市に来る人達も眺める中に誰云ふともなく板舟にちなんで乙の里を板来と言ふようになD。板来の地名が板舟の来往KよD地名が板来と定まると下の里も上の里も乙れよタ少しFくれて星名が生れるようになった。板来の地名とともにここを中心Kして西の万の大江を西浦と名づげるようκなhy。北の方の江も北浦と呼ぶようになタ西浦北浦の湖名がζの里よhy生れたのである。この時代には読書の出来る者は浜の長者の他は極〈僅かで文字を留はんとする風潮が里人の内に生し斯るとき府中の国府よhy国分寺学堂にて就学示達が里長K伝達され、国分寺学堂K就学する者があhJ。又一方私費Kて鹿島大明神の教舎に入り文字を習得したる人達Kよって板来の教育の啓蒙K至大の影響を招来した。ζの地方の教化には国分寺学堂出身者と鹿島教舎学当者の他に都の文化と教養を身につげて販制した衛士による教育啓蒙も見逃すことが出来ない。都の玉城醤備に徴募された壮夫が衛士として玉城の守-説に任し勤めの同K都の文化と教育を身Kつり任満ちて郷土K鍋を飾って地板b地万教育と文化に貢献した功績も多大であった。又乙の衛士は帰榔の後も勤めた官一肘である衛門府兵衛府の栄誉を誇hy自分の名の下K街門とか兵衛と名乗り喜助衛士は善街門と作助街士の場合には作兵補と称し永く街士としての栄誉を誇ったもので右エ門左エ門兵絹の家号は衛士の記念としてつげたものが地方の家号の起源と在ったのである。国府に貢入する税は幽公六民の割であったが宮人の秋の検見の才量κて五公五民となタ或は六公山民の苛酷税となタ農民はこれが納入を怠るζとが出来なかトった。農民はこの暴政の自街手段として首陸下総の頑斗有の判然しない江中Kある中洲を開拓して貢米沿れの浮田を拓いて米の増収K努力した。貢米逃れの一待出耕作にも極々の障害があり大水Kよる被害と水鳥による鳥害とがあった。大水による被害は防きょうも棋かったが水鳥K4る依害は議屋を作hy鳴子や案山子によって防止が出来た。浮出が貢米込れの穏田であったので秋の収穫時Kは対岸よタ集団Kて稲盗人が来越するのを防ぐために集団防衛のためK浮田の各所K番崖を作って醤戒K当D賊固と度々烈しい斗争がくhyかいされた。