ブックタイトルふるさと潮来 第三輯

ページ
10/104

このページは ふるさと潮来 第三輯 の電子ブックに掲載されている10ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

ふるさと潮来 第三輯

いわゆる郷校の設立を奨励された。ζ れκ先だって文化四年二八O七)延方学校が設立されている。時の水戸藩南郡奉行小宮山昌秀のす弘めにより、延方村、辻村の有力者、高田京蔵、高田貞蔵、内藤伴蔵左ど、奉行と協力して設立したものである。現在潮来高校のある内田山の地K、孔子堂を建立し、延方学校は開設された。現在津知恵雲寺の本堂わきにある七面様と称されている建物がζ の時の孔子堂である。文化七年二八一O)新しく聖堂を建て、当時の水戸藩主哀公(八代)が、みずから書かれた「孔子神位」「至聖先師孔子神位」をいたいふき、聖堂内に安置した。天保十一年、延方学校は延方郷校と改称されている。延方郷校の教育は、水戸学であり、皇道学であり、水戸藩の教育精神に基ずいて行われた。即ち水戸学特有の実学本位で、知的、道徳的教科である文(朱子学をもとκした儒学)と、武を課し、文武不岐の弘道館教学精神を汲み、実学の立場として医学を兼修させている。たまたま、曾祖父、祖父の使用した書籍をみつけて整理した時、毛筆で精し〈記入されている記録綴の一冊の、その内容が、現在の内科、小児科、の他、産婦人科κ関する筆記主であったのには、驚嘆したζとであった。ひどく紙魚にくいあらされて、現在まで保存出来念かったととは残念である。内田山中腹から聖堂を中心に建ち左らんだ延方郷校の学舎も明治五年二八七二)八月太政官学制発布Kよって、旧藩時代の学校は廃校と念b、延方郷校の蔵書は県の管轄と左b、聖堂は明治十二年辻村にうつされ現在の津知三夜尊の本堂と左っているo安政三年(一八五六) Kは郷校潮来館、演武館が天王台下κ開設された。との郷校潮来館や演武館は、残念友がら元治元年ご八六四)天狗党騒動の時κ麻生藩の兵達のために焼失されてしまった。。三、小学校さて小学校教育について述べてみる。川旧潮来町明治七年(一八七四)源頼朝が創建した長勝寺を使用して、潮来小学校が開設された。明治十年(一八七七)二月には、大洲の寺をかbて、大洲小学校が創立されている。明治十九年二八八六)には潮来の小学校がわけられて潮来小学校と行方郡第二高等小学校とκなった。つY いて翌明治二十年(一八八七)長勝寺Kあった潮来小学校は新校舎を完成して現在の地K移転する。大洲小学校は潮来小学校大洲分教場と左った。明治二十五年二八九二) -2ー十月、高等科を併置し潮