ブックタイトルふるさと潮来 第三輯

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概要

ふるさと潮来 第三輯

慣行之久、不可一朝而改、課税滞納私紛不絶、吏斉困其処介、臨機措置荏再過十余年、法学士宮本五朔亦生於里名族家、四十二年容里民の嘱、諾為顧問、鋭意任分割整理、身住東京往復郷間毎月数次、準拠国法、按排妥当作分整規約説示利害、里民悦服、及交渉官百万周旋無遺漏、分割専有之事、無幾而成、納租弟耕吏民倶永免紛擾失、五朔而十余年、里民追懐其徳、記其以動貞現長伝不朽、嘱文於余、余与五朔周学之亦不得以文辞之也。大正十一年ご九二二)十二月宮本平九郎書考証。二重谷沿革詳解。二重谷沿革の概要を前述したが、改めて窪谷作太郎翁曾孫窪谷達三氏の珍蔵せる「潮来町沿革史」原稿κ拠って詳しく二重谷の沿革を抄記して、概要の「考証」とする所存である。重復する点もあるが出来るだけ年代を追うて、其の発展の経過を窮って見たいと思う。うちす其の昔、潮来村の耕地は字内洲を西より東κ横貫せゃるかわる北利根川の支流を屋留川又は百間川といい此の川を常陸の国境と定めていた。二重谷の地は屋留川以南であるため十六島の一κ加いられて除々に開懇されて来たものである。最初は潮来の人民が草刈場として借受けたものであったが私かκ団地に開拓したため、新島の人某から徳川幕府K出訴せられ、正保元甲甲年(一六四四)四月十八日潮来κ返地を命ぜられた。翌二乙酉年幕府の代官神尾若狭守鹿島郡へ出張の瑚潮来村総代数名大船津の旅宿に出頭して種々事情を陳述し「新島は人民寡少である上に未開地が多く至るところ荏漢であるのに比し、潮来は人口調密の大村であるから充分開懇の目的を達し得る」といふ確心を述べた。其の後また江戸κ総代を遺はして代官所の門戸を叩いて同様の嘆願をした。幕府はこれを容れて二重谷全部の開拓を潮来κ命ぜられた。其の後延宝元安丑年(一六七三)まで三十年間引続000 き海上納という名義を以って年税五百文を幕府に納入し、ζの間κ於いて二重谷村となる。幕府の制として新規出生の土地即ち河川流域等の洲渚を新たκ開懇した場合は総て代官所直接領地と在す慣例であった。二重谷も新島領κ偏入し別κ一村を立てたものである。-9ー二重谷の益々増殖し、延宝弐甲寅年幕府より代官深谷喜右衛門を派遣せられ実地検分の結果、縄入れを省いて見取にて用反別拾壱町七畝拾歩と定め、租米を拾