ブックタイトルふるさと潮来 第三輯

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概要

ふるさと潮来 第三輯

四年一月二十一日再び町長κ推挙し事蹟見るべきもの多かりしが、大正七年十二月二十八日在在中七十余歳κして病死した。翁の偉業をたたへた「潮来築堤記念碑が眺望絶佳の稲荷山台に建立された。潮来築堤記念の碑」(原文は漢文)潮来の築堤は二重谷、大洲の肥鏡K由る。その水田四百余町、川あbて之を紘b、溝ありて之を通じ、耕種また極めて便左b。然れども連震のときは水積り、汎濫際左く、虚舎を浸し、肝陪を浸し、禾稼恰も苔藻の如し。郷民の流離すること左からんと欲するも得べからず。窪谷翁は名は作太郎、潮来の右族左bo町長とも仏り、明治二十四年、捉を築いて水患を除かんと欲し、之を郷人κ詞るoしかれども、事創始K属るを以て人々之を危ぶむ数歳を愉いて議始めて決す。是K於て築堤委員を挙げ、翁、区長及び二重谷組総代と共に之を督す口前川に沿うて堤を築くとと九一三問、北利根川、浪逆浦、鰐川の築堤六二ニO問、横溢之がために止むと婿も、また狭河を横断し東西に連るの堤防は、末だ全くは逆流を止めて以て水害を除くとと能はず、市してζの河たるや内外浪逆浦の風潮の呑吐するとと塞を禁ず。ろ、険難にして施行するに難く、官また翁然として意を決し、郷人を励まして堤一一一ニ聞をその竣工は明治二十六年七月左-DO是κ於て二築く。重谷大洲等の決野は堤防全く囲続し、明治三十二年官、考査するととろあb、其の四囲の堤防を挙げて以って県堤とたし、毎歳県費を以って修理す。今日四百余町の水田、常に豊能κして潮来の繁庶を増加する所以のものは、郷人の力によると雄も、翁の身を以って、衆を卒いての功多きに居る。沖の洲堤防二十五聞も、その築堤K当り、翁また与って力ありと言う口抑々本邦は農を以って本と左す。市して豊鏡の沃土は多く河川の流域Kあbo是K由って水防は古よb経国済民の要務たbo然b而して功を致すものの少きは何ぞや。ぁκ翁の如く善く謀b善く断じ、而かも私を忘れて公κ詞うる者の稀在るを以ってに非らんや。昔、甲府の代官桜井某、堤を笛いて以って笛吹川の穣溢を防ぐ、民其の恩に感じて碑を建立す。今潮来町有志相謀りて築堤記念碑を建て、以って翁の功を不朽κ伝えんと欲する。之を聞えて賛蓑して資を投ずる者また三百余人、翁と郷民とのー税、うべし。余、請κ応じて其の梗概を記し、と云う。大正七年十一月茨城県知事正五位勲四等水患始めて絶つ。-34一古より美左りと謂以って後人κ記す力石雄一郎額