ブックタイトルふるさと潮来 第三輯

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概要

ふるさと潮来 第三輯

その一部は芦浦を開懇してζ のよう左入会地域は次第K漁場や耕地をめぐって多〈の紛争を引起してくる。殊に洲原K近接する新庄隠岐守の支配領下幡木村(現神栖町)と、その地域を「前洲」と呼んでいた水戸藩南領の飛地延方村の争いは、激しく、互κ相手村の漁舟を奪取り、流水除けκ植立てた芦浦を抜すてる左どの手段Kも及んだ。とのよう念紛争は寛永期から寛文十一K至る四十年間、絶えることは左かっ民の出入する入会地域で、耕地も開かれていた。年(一六七一)たという。ζ の延方、下幡木両村の紛争は、支配する領主聞の問題と在ってくる。ζ の時期は一般的K幕藩体制の確立期と呼ばれ、どζ の藩でも領内の人口増加と、新田開発をなしすすめる政策をとった時代であるから、乙の新地の所属問題は領主κとっても重大事であったと思われる。残された記録κよると、水戸藩では既K寛永十一年ご六三四) κ前洲の延方所属を主張し、正保年中二六四四I四七) K幕命κより差出した常陸国絵図の中κ、前洲を延方村に組入れ、更K慶安二年(一六四九)にはζ の前洲の検地帳を作成、その石高を八十石と定めてζ れを領有する意図を明かにしていまた寛文十一年必然的にその村をる。(一六七一) 時の南領郡奉には、行平賀勘衛門は、延方領民と相談して、大訓新田K鷹狩の番所を設立し、鳥見役をないたが、翌年には争いの前洲κ作場所を置いて、夜間百人の番人をなかせたともいう。昼間五十人、ζ のような水戸藩の権力を背景とした延方側の出方κ対して、下幡木村からはζ の前洲周辺の漁携、或は農耕妨害は全く左くなb、一時紛争は静まったが、同年七月(寛文十二)領主新正隠岐守は、ζ の問題を幕府の評定所へ公訴した。とζκ 前洲をめぐる両者の対立は公式の場kbける論争κ発展したのである。双方よb絵師を同行して評定所へ出頭し、絵図を作らせ激し〈論争した結果、評定所は証拠書類の十分用意された延方村の勝訴と裁決した。ζ れが寛文十二年の七月二十七日であった故、延方村民はζ の勝訴を喜び、記念として以来毎年この日κ、村の鎮守社K角力を奉納するととに在った口ζ れが延方角力の由来であるo 念念勝訴κち4叫んで延方前洲は「福島」と名づけられた。ζ の時の評定所の裁決は「鰐川をもって鹿島郡と行方郡の郡境とする」ものであったが、その後それK対して従来前洲付近を藻草場としていた、鹿島郡の川沿いの村々より評定所へ異議の申し立てが念され、再び水しかしζ れも延方側の主張が認められの裁決が同年十二月六-36-論と左った。「鹿島郡の村々藻草不可取入」