ブックタイトルふるさと潮来 第三輯

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概要

ふるさと潮来 第三輯

大洲開拓大洲島の開発と村田氏σ〉由来大洲島は、浪逆浦の海中の砂が波浪のために押寄せられて、自然にできたものと想像さ今から約れるD四OO年前の元亀、天正の初め頃には、浪逆の海にポツカリ浮んだ砂の丘だったのかも知れ左レミ。水戸紀年農史κ「大洲島は寛永三年の開発K初まり爾後加懇せしもの」とあるが、村田氏系図には「文録慶長ノ頃ハ家数七軒トナリ寛永年中御改メノ節ハ三十九軒トナル」とあるので、実際κはもっと早くから開発を初められたはょうκ思われる。村影彦HI乙の寛永三年から数へて三十六年前の天正十八年に「利根川十六島の開発初む」と「千葉県の歴史」う本K載っている。とレ、天正十八年は、故亡した年で、家康に武蔵、豊臣秀吉軍が小田原を攻略し北条氏が秀吉から小田原攻略の思賞として徳川上総其の他関東各地で二OO万石下総、を与えられた。家康は八月一日江戸城に入城して、を各地κ封じ領内を治めさせると共κ、初めさせたようである。-40一直ちκ譜代の属将各地の開発を十六島がそうだから大洲もそうとは限ら左いもともと大洲島の開発はこれらの藩政によるものでは左〈、天正年中(年月日は不明だが天正十四年から天正十八年までの聞と想像される)村田氏の先祖が独自に入島し、自ら開懇して開発したものである。大洲村田氏一門の祖、下総国村田城主民部少輔兵衛有通が、鹿島詣での帰途大舟津から出船したが、浪逆浦の中央まで来たとき暴風が起ったため、ζ の奇洲大洲と云う渚κ船を漕ぎ寄せて避難し一夜を明かした。しかし、し