ブックタイトルふるさと潮来 第三輯

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概要

ふるさと潮来 第三輯

右之村庄屋組頭惣百姓中L「元録年中ニハ、源西山様(光国公)当新田へ被為御渡之節私宅へ被為入、定時御目見被仰付「其方呼名ヲ島太郎ト称セヨ」ト、且庭前之松へ御鷹御休メ、「此松行末秘蔵致セヨ」ト御盃拝領之上意在之、其翻荒野へ御休殿御懸ク、鶏御狩被遊度々御案内仕候。御鷹休メニ相成候庭前ノ松ハ、天正三乙亥二月六日村田之城主有通ノ植置シ松也。元録十二年迄百二十五年ナリロ然ル処元録十二巳卯年正月二十五日玉造御股へ御召出ニ相成而難有モ大場宗介ト共ニ御目見ノ上「大洲新田島太郎」ヘハ鷹ニ松竹梅ノ金蒔絵三ツ組ノ御盃、「玉造宗介」ヘハ松ノ金蒔絵ノ御盃一ツ被為取置「西山」ト御直筆相添而拝領ス。L庄屋役市兵衛定時(大洲村田氏三代家督)以降本家市左衛門当主が、代々庄屋役を仰付られている。分家仁右衛門れたこともある。同治右衛門当主が本家K代って庄屋役を仰付ら当主、鎮守「水神大神祭神神徳鎮守祭氏神祭ツワメノカミ美津波売神甘雨を降らし霧雨を止む。新二月十五日旧九月十五日L「延宝五丁己年ヨリ当村水神権現へ為社領谷地壱枚並団地村中ヨリ付置申候。前年二月十五日祭頭之時分惣氏子共寄合御祭礼Kっかい可申者也。延宝六成午年三月鍵取庄屋村田市兵衛甚右衛門惣氏子中いつ神肢の造営をされたのか不明である。数が二十九軒あったと記録されているし、宝五年までに約五O年経過しているので、新田の戸数は少〈とも四十軒程度K増加されたのでは変いかと想像され、また、他κζれに関した記録が念いととろからみて、或はこの時代五年頃) 組頭(延宝四、-44-」寛永年中戸それから延当時の大洲