ブックタイトルふるさと潮来 第三輯

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概要

ふるさと潮来 第三輯

渡って鹿島の郷κ至らんとしたが連日の難風のため滞在の止む左きに至った。或る夜の霊夢に深く感ずるところのあった義家公は、日頃帰依していた観世音菩薩を安置し、行軍全軍の武運長久を祈願するζと七日七夜に及び、満願の日と左った。すると驚くばかりの晴天と左b、北浦湖はその霊験κよって凪ぎ、海面波穏となって無事全軍が北浦湖を渡って奥羽征討の道程を続け得て、大任を全うせJ 円、られたという。水原郷民の尊信又驚く、堂を再建して大仏師、法限定朝に属して義家公の守本尊を腹寵bして如意輪観世音菩薩を奉座し、真言宗愛染院の法燈をかLげた。元職三年六月、領主麻生藩新庄越中守直隆公の時代に宗門争いκ水原村の敗訴と左った。しかし檀徒十四名の代表は江戸の寺社奉行に上訴して、三年九ク月の日月を要して再び愛染院が一村一寺の許可を見るK致ったのである。宝永七年五月、領主新庄直隆公よb尊像及び金一封が賞され、新庄家の祈願所で春夏秋冬の御参堂があった。古くから近郷より安産子育観世音として参詣者が多レ、。(現住職平林智益口氏)ー」ム. ノ、、普門院もと、荘厳院と称し天安二年(八五八年)本郡上戸村字小野詰Kあって開基は秀賢和尚と一広われ本町-61-寺院中最も古い寺院である。第二十八世長期和由K至り血脈断絶して法灯式微すること、三百年正長元年( 一四二八年)領主島崎氏再興し板久の地七石を寄附して板久(潮来)に移転し、真言の称乗賀を詰じて、中興の開山とす。醍醐三宝院の法流を承けて其の末寺と左り、竜尾山普門院荘厳寺と改名し、第二十二世尊宥和向の時(元誠十四年) 当時地蔵尊の別当海雲山法珠院廃寺と左ったため、同十五年六月、竜雲山普門院普渡寺と改称し、義公のA怖によb現在の地に移転したものである。義公の命によb地蔵堂を守護しているが、地蔵堂は忍性菩薩が鹿島大神宮の南枝を伐って地蔵尊三体を