ブックタイトルふるさと潮来 第三輯

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概要

ふるさと潮来 第三輯

潮来町の教育の変遷高登代子田風光明層、独特の水郷風景をもって世κ知られるわが潮来町は、けがの常陸風土記にも、豊かな幸ある板久の村として記されてなり、かつては貞享四年二六八七年)俳聖松尾芭蕉翁も杖をひいた地であることは、衆知のと必りである。この豊か在地に、有為左人材、先わが潮来町の教育の変遷についてその概もとより浅学非才古老、諸先輩のずさん左点は、ど叱正を願輩を生んだ、略を述べてみたい。指導によるものであるが、うものである。。一、教育のはじめと塾江戸時代の庶民の教育に、寺小屋と称するものがあり、よみ(読書)かき(習字)そろばんを教えているが、潮来町kbいては、宝永四年ご七O四)延方徳島の則震寺の住職が寺小屋をひらいたζ とが最初である。近くの子供達を集めて、よみ、かさを教えられた則霧寺の住職の名も、はっきりしてい左いが、寺は、現在の徳島小学校地内にあったというととで、古老の伝えによるものとしては、最も古い寺小屋である。今は別として、以前は陸の孤島のようにいわれたことものろしがあがっていある徳島地区κ、教育の第一の、たζ とを思うと感慨深いものがある。江戸末期から明治学制発布まで、庶民の教育機関として存在したものに塾がある。旧潮来町内κは、窪谷塾、関戸塾、石田塾、宮本塾左どがあったが、異色な塾は窪谷塾であった。窪谷塾は特に子女の教育K重点をむき二十六才で未亡人になった窪谷妙真が教育にあたり、よみ、かき、の他κ裁縫を教え、将来一家の主婦となった折の心がまえ、家族づ〈bが如何に大切なものであるかを考え、「女大学」の講義Kは特に力を入れたという。文政十一年三月十四日、六十八才で逝去。この間四十年余り、教育をうけた子女の数は数百名といわれている。石田塾、宮本塾は、潮来三塾とよばれて有名左ものであった。これらの塾κないては、四書五経、十八史略、日本外史左どを教えていた。関戸塾については、くわしい古記録がのとされているが、石田塾、宮本塾については精しい記録が失われているのが残念である。関戸塾、。二、郷校天保十二年ご八四一)水戸藩主烈公(九代)公立の学校として水戸に弘道館をたてられ、水戸精神の徹底をはかられたが、同時に藩内に、公の命によるは