ブックタイトルふるさと潮来 第四輯

ページ
56/126

このページは ふるさと潮来 第四輯 の電子ブックに掲載されている56ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

ふるさと潮来 第四輯

の心を尽す然れども家もとより貧うして負債頓K加はり田畑尽く債主の有K属しEつ家屋晒ろう風を蔽ふK過ぎ」ず隣里其の窮迫を偶み賑はするK残物を以てす。其方一E感奮隣家K就き若干の金目を借り資本と念し潮来村K入り飴を購ひ近傍村落にひきぎ所得を以て吉衛門の噌好する所を飲食せしめ所得中幾分の残りを同村某K托し置き満金壱円五十銭K至りて衣一領を買うて吉衛門K服せしめ候趣其の孝行九才余りの児Kは殊勝の事K候依りて賞誉の為め前書目録之通り下賜候事明治八年十二月十五日茨城県知事安固定則関沢浜翁関沢四郎衛門名は泰助浜翁は其の号である。祖は延方村の長百姓の一人Kして代々庄屋文は組頭として藩政K尽した。幼Kして俊英榊原氏K学び最も分間の技術K長じた。天保年間組頭相勤中延方村並に徳島新田古高村大洲村等の絵図面を作製して之を村K納めて一般庶民の使K供した。(当時の絵図面は現在役場K保存してある)安政二年Kは藩主水戸公の命を受けて仙波湖分間絵図を調製して之を納め褒賞として御杯一個小万一口を下賜された。文水戸藩の治水策として鹿島郡居切村堀割を企つに当り此の設計図を完成し御勘定係を仰せ付けられ其の褒美として名字帯万を許可された。明治六年地租改正令発布の際は七十余りの老令を以って陣頭K立ち自村は勿論他村迄も田畑山林の一筆調査の実績を挙げ大いK県Kも村Kも寄与する所多かった。戸長として職に在るとと殆んど十年偉大な治績を遺して七十八才Kして没した。高固定五郎延方村曲松の人、先老清川翁は聖堂門下の俊才である。先生幼より翁の陶冶を受け普ねく和漢の学K精通す。明治五年学制発布同十一年村校設けられるや其の教師となる。謹厳Kして強記該博人を教ゆるK誇々として倦まず恩戚並び行はれた。明治十九年学校成るK当り擢んで校長を拝命し一意専心育英の道に精進し学徒の教化K努めた。会々明治二十二年町村自治制度実施K際し延方村初代村長として挙げられた。当時はまだ諸政令全く整はず朝令暮改実K繁K堪えなかった。然し先生は一々剖切K之れを裁し村政を大いK麓草した。二十五年六月職を辞し再び教職K就き汎く一村薫化した。時の人皆其の徳K感じ校庭K噴徳碑を樹て偉業を後昆K伝へた。-48一