ブックタイトルふるさと潮来 第五輯

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概要

ふるさと潮来 第五輯

のを注目している乙と(今日の緑膿菌感染症の注目)、内翻足(筆替、または放平)の独自な治療法の提唱(整形外科学の基盤)、子宮鏡を自ら考案作製して実用した乙と(婦人科学の基盤)、駆虫薬のセメンシlナの実用、その他で寄生虫病学の手法を指示したり、また錨灸医学上の知見も加えている乙となど数々の独自な優れた新知見を加えて稽留舘医学の頂点を樹立し、而も謙虚に教育に務め、詩情を豊かに作詩、絵画、書などの高雅な文筆学者として人生を築いた。中略玄調は藤田東湖らと禁鋼刑を受けたが、東湖が地震のために獄死する悲運に終ったのに対し、死を免れ解放されてさらに医の道に努力貢献したが、彼の修業中華岡入門、シ!ボルト入門などのことに関して一部世論の混乱があってシ|ボルト入門後青洲門下となったとする人々の認識は誤まりで、玄調が養父本間道偉や郷宰官小宮山楓軒に書いた手紙の数々からも明かな如く、彼の西遊日程は文政十年(一八二七)玄調M才、青洲俗才、シlボルト出才の時であり、3月お日紀伊平山村華岡塾入門(春休軒門入録による)閏6月M日大阪発、6月6日退塾、7日大阪着、6月幻日熊本着。7月1日長崎着(先ず吉雄幸載塾入門)7月口日9月初シlボルト塾入門長崎発、9月末大阪経由、華岡塾訪問京都着、高階相園児入門。叩月3日文政十一年夏六月常陸に帰国、そして七月十二Hにはもう乳癌剃出手術を実施して、八月八日比は全治させて感謝されている。以上の如く華岡塾入門は僅か二ヶ月半、は一ヶ月半である。シlボルト塾入門(このことは中野操博士の見解と全く同じである) そして書簡に述べて日く「シlボルトも異国の人と申すのみにて初学の様に存じられ候、:::治術の事は蘭医シ|ボルトと申者罷在候。頗奇妙なることも之有候へ共、華岡の上に出候人物とは存じ申さず候」と記している。従って長期の入門も無駄と考えたことであろう。また「華岡の下腿切断を当分医の第一と見受け申候」「天下第一の英物と申候は華同一人かと存じ奉り候」などとも個軒宛に書いている。自己内容が充実して、独自の見識を備えた後の留学外遊が短期間の聞にその効果が如伺に大であるかを訓えられるのである。学は須らく基本を原点において身を以って学び、師に心を問うものであるべきことを示す実証である。玄調が幼少より四書五経に親しみ、自然を愛し、自律的な詩境に住み、俗盛に惰せず、高雅な人格を成した学道一如の修行を経て、養父玄有の愛育と敬信に応えた積み上げの賜物-96ー