ブックタイトルふるさと潮来 第五輯

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概要

ふるさと潮来 第五輯

内氏に招鳴されて野州に行ったが、妻との聞に子なく、門下生の京師の人友松氏の子を養子として道困と改名し、業を継がせた。晩年は常州潮来に移住した。乙れが自準亭である。潮来の天王河岸に石田家の屋敷内のはなれを自準亭に貸したものであると石田得牛氏(鈍才でホトトギス派の俳人)は証言され、裏の畑の焼跡を掘返した際に本間家紋章の三階菱の画かれたフクベ(瓢箪)が発掘されて石田邦鎮氏宅に保存されていたが惜しくも戦後の潮来大火で焼失した乙とは残念至極である。現地で筆者は石田得牛、宇野沢竹童両句宗匠や井坂教、柳沢美代志、石島弘、伊藤英雄の諸博士や先生達と道悦が伺故水一同から潮来に移住したかの要因を座談考察して見たが、異口同音に潮来が景勝の地で月比よし、花によし、民情が平和で気候も温和、物資も豊かで住み安く、名刺、神社も近辺に多く、水路縦横で舟便よく、水戸、江戸を結んで至便(江戸まで一夜の舟便)であるのみならず、津軽河岸、仙台河岸の遺跡がある如く、遠く奥州との交易路に連なり、村内の往来はクリークを舟で行われ、結婚式も舟で行われ、嫁も舟で迎える様民家々の交際も裏口から舟便により容易が拡がって、恐らく蹴になった道悦の患家往診は舟便を幸とした考えもあ一方水戸藩の歓楽街であり、所謂赤線地帯をなしていた立場で水商売の淡々とした人情も大利根川の悠然たる水の流れに光吉(今で云う紅い灯、ったものとの結論に達したのである。青い灯)を引いて人生の楽しみゃそ漂わせ乍ら、夕食膳につつく川魚の鍋料理も般若筒の香りもまた一層映えたのではなかろうか、また患者のバラエティーも広かったに違いない。しかし乍ら自準亭のたたずまいは石田家の離れ一屋であったらしく、簡素な文筆を楽しむ閑静なたたずまいで、重要文化財渡辺華山筆の「潮来舟遊図」(文政八年七月、一八二五)を所蔵する近くの榊原家の如く豪華な家屋ではなかったことは間違いない。乙乙潮来の月は葉山の月として著者も宿の窓に悦惚となり、故人を偲ぶと共に近くの根本寺と仏頂禅師の昔を想ってみた。「月はやし梢は雨を持ちながら」芭蕉(根本寺句碑)「寺に寝てまこと顔なる月見かな」芭蕉(大儀寺句碑)「雨に伏し竹起き返る月見かな」曽良根本寺に住んだ仏頂和尚は鹿島郡平山家の生れで七才の時近所の寺庭の柿を盗んで木にくくられたことが起縁で仏門に入ったと云われる。-99-芭蕉が仏頂禅師に師事したことは有名で鹿島紀行も主目的は参禅でもあり、また月見の句会でもあったとも考えられるし、私は俳句そのものが自然の閣をさまよう禅問答の絶唱と考えられると思うが、俳句にワビ、サビ、軽さ、新しさ、素直さ、季節感などが禅味として加えられるのも当然の如く思える。そして芭蕉が「高く心を悟りて俗に還れ」と云う言葉も禅の一喝として、或は警策の一打として素晴しい清澄覚醒