ブックタイトルふるさと潮来 第五輯

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概要

ふるさと潮来 第五輯

害等による生産力の低さにあったろうが、一面では開発途上にあった乙の地域の新田開発を保護援助する意味もあったろう。しかし享保期に入ると高率に転じて、事保一二年(一七二七)から寛延三年(一七五O)の平均免は二ツ四分五厘となり、更に宝暦期以降は文化一一年(一八一四)の二ツ八分文政三年(一八二O)の二ツ九分は例外で、他はすべて三ツ取以上の高率になっている。乙の数字は大洲新田の生産力が高まり、本田並の年貢率に組入れられていった乙とを示すものである。そして天保の検地以後は、前述した村高の飛躍的な増加となり、反面年貢率は二ツ一分K引下げられ、他地域同様に定免制に改められていく。一方畑高は田高に比較して少なく初期は殆んど屋敷地だけであったが、享保期から次第に増加し、明和、安永期には石高一OO石を超え、畑高が村高全体のほY三分の一に達する畑万年貢率は正保1寛文期は一ツ一分乃至二分と低いが、延宝期比は一ツ三分から四分とや〉上昇し、天和1正徳期比は再び下って一ツから一ツ二分となる。しかし享保期比一ツ四分、元文期に一ツ六分、寛保期一ツ八分、そして延享1宝暦期は一ツ六分乃至八分と高率を持続する。だが畑高の増加した明和期には下降して一ツ六分、安永中期1文政期には一ツ二分から四分となり、文政以後天保期まで幾分上昇するが、天保検地以後は一ツ三分台の低率となる。そして嘉永二年( 一八四九)以降明治に至るまで、畑高免は一ツ二分に固定する。水一戸領全体では田方より畑方が高率であったが、大洲村においては田方免に対して畑方免が著しく低率であったと乙ろにも一つの特色がある。ω災害と引高先に年貢割付状から村高の増加を概観したが、乙の村高の増加がそのま〉大洲新田の順調な発展を意味するものではない、江戸時代を通して種々の災害が発生したが、特に周囲を河川に囲まれた大洲新田は屡々水害に苦しめられてきた。乙の様子を示すものが表(2)である。(表(2)大洲新田の災害引高一覧-m頁参照) 大洲に庄屋役が設けられた正保二年から明治元年比至る二二O余年の聞に、災害のための年貢の引高(免除高)が村高全体の三O%を超える年が六O回を数えるから、実に三・七年比一度の割合となる。しかも田方については年貢全免(年貢の全部を免除)が、貞事四年(一六八七)以降一一回、それに全免同様の享保二年(一七一七)、天明二年(一七八二) 文政七年(一八二四)を加えると一六年に一度の割合となる。田方年貢の全免は田方の収穫が皆無同様の災害発生を意味するものであり、乙の災害の殆んどが周囲に完全な防水堤の無かったための水害、或は流水が土砂を流し込みいわゆる「砂置地」として耕作不能になったためである。勿論乙の定期的ともいえる水害の不利を補うため、新聞検地の緩かさ、年貢免の加減など藩の保護政策があったろう。乙れが頻発した一18-