ブックタイトルふるさと潮来 第五輯

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概要

ふるさと潮来 第五輯

甲子動乱(天狗諸生の乱) の経過関豊正山元治元年(一、八六四年)三月二十七日水戸藩の郷校関係者の藤田小四郎・竹内百太郎・田中悪蔵・岩谷敬一郎(水戸尊王撞夷・天狗党と称芝らは水戸町奉行の田丸稲之衛門を首将として尊王撞夷を唱え筑波山に挙兵しました。諸国他藩からも参加するものがあり、一党(筑波勢と呼ぶ)百七十齢人は四月三日、筑波山を下り、野州(栃木県)日光山に向いました。しかし筑波勢は日光山にたて寵る乙とが出来ませんでしたので同十四日、今の栃木市の西へ一里ばかりの太平山に移動しました。そして盛んに金穀を募り武器を集め気勢を揚げました。筑波勢のそのような過激な行動は周辺の諸藩や関八州取締の役人からも幕府に報告された。幕府では直ちに水一戸藩に筑波勢を鎮撫する乙とを命唄すると共に、周辺の諸蒋に厳重な啓一戒を命じました。水戸藩では筑波勢を鎮撫するため、山国兵部・美濃部又五郎・立原朴二郎の=一人を太平山へ派遣して蒋主の命を伝えましたが、筑波勢は命に従いませんでした。するとその頃、国元水戸の藩校弘道館の文武書生が、磯浜今の大洗町祝町の岩船山願入寺に集会を催し筑波勢を追討する決議をしました。この団体を書生(諸生)党といいます。水戸藩は御三家という幕府とは特別な関係にありましたので、今度の筑波勢の過激な行動を断じて許すことは出来ないとして建言書を藩庁の重役に呈出しました。その一文によりますと「近来狂暴の士民ら尊王撞夷に名を借りて累代厚思の君十七を指置き、各々その身の分限を忘れて天朝の御明徳を語ひ奉り、他国浮浪の悪徒をかたらひ、徳川御親藩の臣下として、昇平の至思を忘れて反乱の大逆を企て、賄賂を貧り国中無罪の良民を苦しめ、祖宗の法度を破り云々」とあり、反乱の逆臣と非難攻撃しております。これが御三家御親藩の水一回の正論であることは間違いではありませんでした。しかし日本には、幕府の上に朝廷があり、義烈両公以来の勤王の大義がありました。良UqJ五月下旬、筑波勢は太平山より再び筑波山へ帰りました。その頃の兵力は壱千齢人といわれています。水戸藩には九代藩主斉昭(烈公) の時代から結城派という佐幕的な考えの人々がおりました。ここに於て佐幕派の市川三一左衛門、佐藤図書、朝日奈弥太郎らは、諸生党と連合して筑波勢を追討する乙とになり、五月二十六日、一党は千波原を出発して江戸へ向いました。その兵力五百三十五人といわれております。この一隊は小石川の藩邸に入ると藩主慶篤に謁見して尊撞派の重臣を追放し江戸の藩政権を握りましたU