ブックタイトルふるさと潮来 第五輯

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概要

ふるさと潮来 第五輯

乙の報告が国元に伝わると、水戸の尊王撞夷派は憤激しました。それは烈公の遺書民、佐幕派の人々は藩の重要な役職には就任せしめないようにと書いであったからでした。そ乙で国元の尊撞派は六月中旬から下旬にかけて乙の遺書を持参し榊原新左衛門・大久保甚五左衛門・鳥井瀬兵衛らを初めとして三千人齢り大挙南上して示威運動に出ました。その目的は再び尊撞派が権力を奪回するためでした。これを大発勢といいます。その頃、江戸では市川三左衛門が大将となり水戸兵三百齢人を卒い幕府追討軍の先兵となり、総勢三千七百齢人の大部隊は日光街道を筑波へ向いました。宇都宮・壬生・高崎など二十数藩にも幕府の命が下り、これを支援するため、結域・下妻地方に集結しつありました。乙の兵力も弐千偉人といわれていますU幕藩連合の追討軍六千は七月七日下館・下妻の二街道から筑波に向いました。筑波勢は山を下って、洞下(ほ色げ)に布陣して追討軍を迎い撃ちました。しかし、筑波勢は衆寡敵せず後退しました。筑波勢は尋常な手段では勝つ乙との出来ないのを知ってい七月九日追討軍の本営のある下妻の多宝院に夜襲ψ守することになりました。その夜藤田小四郎・飯田軍蔵・竹内百太郎らの奇襲隊は間道から小貝川を渡り敵障に斬ました。そ乙で、込みました。本隊は高道祖から小貝川を渡って前進攻撃しました。乙の作戦は成功し、追討軍は不意を討たれ総退却の止むなきに至り江戸に引き上げました。その頃、江戸の水戸藩邸では政変があり、佐幕派の佐藤・朝日奈らは一ヶ月で政治権力の座から追われ日光街道から水戸に下りました。下妻で破れた市川三左衛門の一隊は、江戸に帰る途中、佐藤・朝日奈らと武州杉戸駅で会見して、政変を知り急ぎ帰藩して七月二十三日水戸城を占拠しました。筑波勢の別動隊田中慮蔵らの一隊は六月六日、足利藩栃木陣屋の兵と交戦して栃木町を焼き、七月二十一日には土浦域を攻撃して真鍋町を焼討するなど、その暴行自民齢るものがありました。水戸城に拠った市川三左衛門らは諸生党と連合して戦備を堅め、農兵は筑波勢や尊撞派の居宅を襲撃するなど、な行為にでました。乙れに同意の乙れまた乱暴-39-これを知った筑波勢は急ぎ筑波山より府中を経て水戸街道の長岡駅に至り、七月二十五日水戸城を攻撃、城南藤柄町で城兵と戦いましたが撃退されました。乙れよりさき、京都では、六月五日に池田屋事変が起り、七月十九日比は、長州藩の尊撞討幕派は京都御所を警衛する会津・薩摩及び諸藩兵と戦争となりました。ζ れを蛤御門の変(禁門戦争)といいます。州民帰りました。しかし長州勢は、戦いに敗れ長七月十六日幕府では、追討軍が筑波勢に敗れたので、新たに参政田沼玄蕃頭を追討総督に任命し壱寓数千人の大部隊を再び出動させる乙とになり、その先兵は乙の日江戸を出ました。