ブックタイトルふるさと潮来 第五輯

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概要

ふるさと潮来 第五輯

小川から移動した筑波勢、その別動田中隊、潮来学館の隊などその勢力、三千齢人が期せずして集結したのです。が九月一日祝町民いた田中悪蔵の部下が、湊へ来て、掠奪をと乙ろ初めました。これを知った頼徳の兵はやめさせようと注意したととろ、掠奪組がその兵を斬ってしまったのです。そのため大発勢の一部には田中勢を討とうとの意見もでましたが武田耕雲斉や浅田富之允がとれをとめたので田中勢は、祝町を去り部田野を経て村松(東梅村)へ移動しました。ζのとき潮来勢は殿山に筑波勢は平磯にいました。九月三日頃、首将の田丸は高石山聴法寺の本営に残り、その主力隊は殿山・平礁を出て馬渡村へ向いました。乙れは筑波勢が積極的な作戦を開始したのです。藤田隊は、市川党の農兵を撃退して米崎へ向いました。潮来勢は、佐和より菅谷を経て酒そして額田村の佐幕党の農兵を挟撃(東海村) 出村(那珂町)へ向い、すろ分進合撃作戦でした。こうした意図をかねて察知していた市川党は八月三十日に奥州二本松蒲兵を初め域兵を久慈川の北岸にすでに展開させていました。筑波勢にしても太田郷の北部の山間地帯比布陣して北方より水戸域。伊牽制する作戦であったと思われます。久慈川の南岸には東より村松の田中勢・額固に筑波勢・潮来勢など約壱干の兵が布陣し久草川川をはさんで二本松その他追討軍の二千の兵と対陣となりました。すると市川党は先ず水戸城より寛助太夫の一隊を教導として字都宮・壬生の藩兵千数百人を菅谷に前進せしめ、額田の筑波勢の背後を攻撃する作戦をとりました。乙れでは前後に敵をうけて筑波勢・潮来勢は久慈川の渡河戦を実施する乙とが出来なくなりました。そして九月六・七・八日と両軍は額田と官谷の中間の村落の点在する平野に戦闘が展開されました。宇都宮・壬生の藩兵は額田藤山に拠る筑波勢を攻撃しましたが、勝敗は決しませんでした。前記したように九月九日、乙の日は、大津隊の残兵が久慈川の北岸島村で全滅した日でした。乙の日に山野辺の助川城は追討箪に占領されました。また乙の日勇敢なる二本松兵の一部は久慈川を渡河して村松の田中勢を攻撃しました。しかし、乙れは田中勢の反撃逆襲をうけ久慈川の南岸竹瓦で、多数の戦死者を出して後退し支した。田中勢の背後は攻撃されていませんでしたので積極的に戦う乙とが出来ました。額田を攻撃した壬生兵は菅谷に宿陣していました。宇都宮の兵は田彦(勝田市)に宿陣していました。降雨のため久慈川が増水しその渡河をあきらめた筑波勢・潮来勢は同日の九月九日の夜、ひそかに額田を発し、壬生兵の警戒する戦線を迂回して、田彦氏夜襲をかけました。史料によると字都宮兵にはかなり油断があったと書いてあります。菅谷には壬生兵もいる乙とだし酒など飲んでいたとあワ臼組処ります。乙れは下妻の夜襲に次ぐ筑波勢の大勝でした。同十日筑波勢は平磯に帰り、潮来勢は、磯浜に転進して、夏海・大場万