ブックタイトルふるさと潮来 第五輯

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概要

ふるさと潮来 第五輯

面の敵と対戦する乙とになりました。田中勢は、その後久慈川を渡り石名坂で二本松兵と戦い久慈浜民宿陣しました。そして九月十八日助川城に入りましたが、山野辺・大津らと同様に追討軍に包囲されてしまいました。勇猛の田中勢も遂に国立無援となりました。同二十二日、二十四日と二度に及び包囲線を突破して那珂湊に帰ろうとしました。筑波勢も平磯より村松まで出動して乙れを救援しようとしました。これを知った市川ら城兵と追討軍は村松ぞ占領して乙れが連絡線を乙乙に於て田中勢の運命もきまりました。田中勢は九月二十六日大津隊のように助川域の裏山から脱出して高鈴山を越え入四聞に出ましたが、乙とにも敵兵がおり、木の根坂で激戦となり乙れを撃破して北に走り八溝山に拠り遮断しましたdました。しかし乙れは田中勢の失敗でした。伝説の天狗は霞を喰っても生きる乙とが出来ますが、人間は霞即ち空気のみでは生きるζ とは出来ません。田中はついに部隊を解散して時期を待つように部下に伝えて山を下りました。しかし田中を初め大多数の兵は捕えられて斬られました。さて磯浜に移動した潮来勢は敵を夜襲して勇敢に戦いまししかし隊長の林五郎三郎が戦死してしまいました。九’- e、点スカ月二十三日、乙の方面の守備兵は衆寡敵せず那珂川以南の陣地をすてて那珂湊に帰りました。この頃には那珂湊に拠った水戸の尊撞派天狗党は全く孤立無援でした。そして食糧も逐次欠乏をつげてきました。そのとき、目代松平頼徳に幕軍の戸田五介の代理として使者がきました。頼徳も使命を達し得ず時態の打聞に苦慮していましたので、その申入れを聞き、ともに江戸に帰って協議することになりました。そして附家老山中新左衛門を初め水一戸の重巨大久保甚五左衛門・鳥井瀬兵衛ら数十人の家臣とともに九月二十五日那珂川を渡って松川陣屋に向いました。松川に一泊しと乙より江戸街道の西郷地村に至ったとき、水戸城から一隊が追及し来り、頼徳らを水戸城に連行しました。そして十月五日、頼徳は追討軍と交戦したとの理由で水戸城中で切腹となり、近臣数名は自殺し山中・大久保・鳥井ら重臣を初め、家臣はすべて斬首されてしまいました。-43-史家それぞれに史観考察もありましょうが、やはり乙れは幕軍の謀略であったのが通説のようです。頼徳は去るに際し榊原新左衛門を総督に任命し後命を待てといったので榊原ら大発勢は全く追討軍とは交戦していませんでした。追討軍と積極的に戦ったのは、筑波勢と湊文武館、潮来勢のみでした。那珂穫に拠った尊撞派は必ずしもその主義主張は同様ではありませんでした。榊原や神勢館長の福地政次郎などは筑波勢の過激な行動については反対であったといわれています。三千余人の個々に対して分析を試みるζ とは出来ませんが、同床異夢の那珂湊陣営を大別すると大体そのようになると考えられます。