ブックタイトルふるさと潮来 第五輯

ページ
48/114

このページは ふるさと潮来 第五輯 の電子ブックに掲載されている48ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

ふるさと潮来 第五輯

湊の戦争には乙んな美談もあったのです。さて、震勢は敵を追撃して新堀より鍛治屋窪の一本松まで至りました。すると二本松藩・宇都宮藩の兵が、松並木の左右より、また幕府の撤兵隊も市川勢・福島兵の教援にかけつけてきました。今度は湊勢・潮来勢の井田平三郎・朝畠源太郎・高松与四郎らが苦戦となりました。そ乙へ前浜・磯崎に出動していた筑波勢藤田小四郎・飯田軍蔵の一隊三百齢人が奇兵となり横合より敵の左翼民不意に発砲して突撃しました。敵も遂に馬渡にまで後退し、また中根村の方へ総退却しました。乙のほか戦闘は早朝より午后二時頃までつづきました。乙の日は追討軍の本格的な総攻撃でした。ζうした戦闘があとも続くわけですが佐幕党の市川三左衛門と共に湊攻めに参加していた諸生党の中には必ずしも市川・佐藤・朝日奈と同様の考えの人たちばかりではなかったのです。それは大発勢として六月中旬に南上した中の一部の者は慶篤の命によって、目代頼徳が台町民到着する前に帰藩した者もいたのです。鎮派の一戸田銀次郎・渡辺半助を初め二・三百人はいたのです。久木直次郎なども、戸田と同様の考え万の人でした。水一戸尊撞派も激派(筑波勢のような急進派)と鎮派即ち穏健派とすでに分裂していたのです。その穏健派がまた、佐幕党に積極的に協力する組と、やむなく協力せざるを得ない組とに分裂していたのです。佐幕派民協力しないと処罰される乙とになるからでした。もっとも鎮派ですが久木直次郎は大発組ではありません。幕府ではすでに臨時処断法を関八州は申すに及ばず、奥州までにも発令していたのです。筑波勢は勿論、所々に屯集し、金銭など強要した乙とが取調べの結果、判明したものは、幕府の許可など必要とせず情況の如伺にかかわらず全部死罪にせよとの命令でした。手数をはぶくための臨時の便法だったのです。敵味方と分れていましたが戸田・渡辺・久木や榊原・福地などは、元来主義主張は同様であったのですが遇然の結果が期せずして、相戦う羽田となったのです。やむなく出陣した戸田や久木は祝町の天妃山に障していました。筑波勢や武田勢は、反乱軍であり逆臣ですから助命する乙とはとうてい出来ないと心の中で考えしかし、初めから追討軍との交戦の意志のなか-46-ていました。った榊原らを出来るものなら救出したいと考えていました。また、榊原や福地政次郎などは、頼徳の兵を殺した田中間部蔵を許さず、乙れを討つ考えをもっていたのです。そして榊原らは筑波勢と共に殺されては賊徒としての汚名が死後まで残る乙とを遺憾と考えました。詳細に書くと長くなりますので、結論を急ぎますが、幕府も榊原が降伏すれば寛大な処置をすると戸田や久木民約束したのです。榊原は乙れを信じました。乙れは口約束でした。あとの乙とになりますが、・もっとも、これは結果的には、少しも寛典ではなかったのですU戸田・久木・榊原ら総ての人々は佐幕党と幕府にだまされたのです。