ブックタイトルふるさと潮来 第五輯

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概要

ふるさと潮来 第五輯

たいじん大人であって、長崎紀行の途中田度津(今の多度津)より郡奉行小宮山楓軒宛に書いた手紙の中にシlボルトは紅毛碧眼で奇妙であるが、医術に於て華岡の上に出る人物とは思いて、天下第一の英物は華岡一人かと存ずると卒直に云っている。そして西洋医学の真髄を究めて余す所がなく、殊に種痘の技術、経過、意義などの知見を確認して文政十一年(一八二八)の夏、帰村しているが、その直ぐ後の七月十二日には橘村与沢の牛兵衛の母、日才の乳癌手術を行い、八月八日には全快させている。(現在の与沢村の長島銀一氏宅)玄調の文筆を見れば立派な文学者であることがよくわかる。また軽妙なる画も旨い。倹約簡素の生活を楽しんでいるが、宰官小宮山楓軒宛の手紙中には彼が頼山陽に会ったことも記しており、「京都に頼徳太郎、近頃久太郎と改名仕り候、乙の人評判に御座候」云々と報らせ、彼の新作得意の詩二首を示して楓軒に伝えている。また今目新しく発見した手紙にもその子資興に詩作の韻を踏む教育を怠たってはいない。中略玄調は小川稽醤舘を創立した祖父の玄琢、その嗣玄有の他に若い頃から原南陽の医学の流れの中に指導を受けている。その高さと深さから云って原南陽は水戸医学発展の基礎を成した人であって、玄調と並んで偉大なる名医である。水戸にはその他十指に余る名大医が挙げられるが、医師会長石弘博士は医学発展に貢献の著しい名医として鈴木宗典、森巌塾、加藤九皐、原南陽、本間玄調の五名を挙げていス九島私は玄調の関係から特に原南陽を挙げざるを得ないυ それは師南陽の心が玄調に継がれているからである。南陽は名を回目克、字は子柔、通称は玄貞、玄春、玄興(玄与)と改め叢桂亭と号した。南陽とは傷寒論の著者張仲景(長沙大守)の住所名から取ったもので、彼には傷寒論夜話の著作があり、先祖は甲斐武田家の勇将の後高で、父昌術は水戸侯侍数原尚日の門下で水一日藩医となり、成公の侍医(明和元年、一七六四)、安永元年(一七七二)文公侍医を勤めた。門下生記録を見ると本間玄琢(天明三年)、玄有(寛政五年)、道偉(寛政十一年) 、玄俊(文政三年)夫々南陽の塾に入門している。南陽の母は守山藩の家臣戸崎允明の妹である。-94-南陽は安永三年( 一七七四) 父清漣の年忌を済ませて西遊の途に上り、山脇東洋の子東門に学び、賀川子玄の養子玄姐に産科を学んだ。彼は古医方派として水一戸に新風を呼んだ。彼は酒豪で江戸に開業したが、水一戸侯の暑気あたりで宮医、市医の治療が効を奏せず悪化する許りであったが、偶々南陽が推薦されて診療に当り、乾震乱の証として薬剤を調合して献上し、自分は半時間程酒を貰って飲み乍ら待っている聞に吐潟が起り、諸症は平癒した。宮医達が彼にその処方を問うと全置要略に在る走馬場であ