ブックタイトルふるさと潮来 第六輯

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概要

ふるさと潮来 第六輯

大壇度道暁禅門以古鐘未宏与貴答等共施財新而大之住持妙節長老請於円覚清拙受為之銘日(書下し)常陸国海雲山長勝禅寺鐘銘並びに序寺は文治元年に始まり、右大将般の時に立つる所なり。今は元かうとおよよさいすなはごがんじよ同徳庚午に治んで、百二十余載なり。乃ち鎌倉殿の御願所として、だいだんどだうけうぜんもんω いまお伶いきけんら大檀度道暁禅門、古鐘の未だ宏ならざるを以て、貴容等と共に財ほどこおほきえんがくぜいせっそうこを施し、新にして之を大にす。住持妙節長老円覚の清拙史に請ひこれつ〈らいはて、之が銘を為しめて日く。(通釈)寺は、文治元年(一一八五)、〔源頼朝が戦勝を祈願して、寺号うこのえを長勝寺と命名したこと〕に始まり、右大将(右近衛大将源頼朝)のとき堂宇(寺院の建物)が建立されたものである。今では元徳二年(一三三O)にいたって、百二十余年(百四十年あまり)たった。。鎌倉殿々とよばれた鎌倉幕府の創始者である頼朝の祈願所としては、大施主の下総五郎禅門道暁が、これまでの釣鐘が大きほどp」くないということで、高貴な親族・仲間などとともに財物を施して、新しく鋳なおして大きな釣鐘に造りかえた。時の住職の妙節和尚ぜいせっしょうちょうの清拙正澄和尚にお願いをして、鐘銘をそこで、が円覚寺の住職(十六世)つくっていただいた。〈注〉川この年、屋島の戦い(二月十九日、義経が少数の兵をひきいて屋島を奇襲し、平氏が潰走する)を目前にして、『吾妻鏡』二月きぜいな十三日の条に、平家追討の御祈請を為す。鶴岡の宝前に於て、鎌倉ぜうLふだいはんにやきeう中の僧徒を召緊して、大盤若経を転読せらるる。京都又二十壇の掛しぎeううん由ん法を始行せらると云々とあり、長勝寺などの地方的記事は、この「云々」のなかに省略されてしまい長勝寺はこのときの祈願(立願)により命名されたのではないだろうか。凶文中の「右大将蹴」と「鎌倉蹴」を単なる文章表現上のいいかえとして、頼朝時代とばく然とみるか、あるいは右大将時代(建久元年・一一九O)と限定的にみるかによって解釈は異る。すなわち、八月、頼朝は伊豆に挙兵した。それからちょうど十年の歳月をへて、源平の内乱の時期はすぎ、頼朝は東国の新さんだい政権の首長「鎌倉殿」としてみずから上洛し、参院参内して京都の二八O年(治承四)政権の代表後白河法皇や後鳥羽天皇に謁見した。東国の支配者の地’』んのだい主L位の象徴としての征夷大将軍は認められなかったが、頼朝は権大納言に、さらに文武の最高官をかねる意味で栄達の極とされる右大将(うこのえふ右近衛府の長官)の職に任命された。頼朝はいったんこれを受け、-2-二九O年(建久二十二月一日、右大将拝賀の儀式を盛大にとりたてまつおこなうが、=一日には「右大将家両職辞状を上らしめ給ふ」(『吾妻鏡』)とあり、四日以降は、前右大将家」ということばで表記されている。ここに頼朝は、王朝政権下に鎌倉殿を王臣に再編成しょうとする公武融和政策を拒否し、武家政権の首長として、単なる王さぶらい朝の侍大将でないことを天下に明示した。鎌倉に帰ると上洛の効果さbeの〈もんじよまんどころを印象づけるべく、前大納言・右近衛志村の威を飾り、公文所を政所きっしょはじめと改称し、翌建久二年正月十五日、古書始を行って、文書の書式もさきの「前右大将家政所下文」に改めた。しかし、長勝寺への立願成就ということで、堂字の建立を命じたとして、「右大将般の時」を一一