ブックタイトルふるさと潮来 第六輯

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概要

ふるさと潮来 第六輯

九O年(建久二と特定するだけの確たる史料は見あたらない。ごがんじよ削「御願所は祈願所のことで、願かけ(立願)のために建てられた社ほだいしょだんなだんおっ寺である。また「菩堤所」(菩堤寺・檀那寺・氏寺、すなわち檀越がこれに帰依して先祖の遺骨を葬り、その菩堤を弔う寺院)とは異る。頼朝は、源氏の菩堤所として、文治元年( 一一八五)二月十九しょうちょうじゅいんみなみみどうおおみどう日、鎌倉市雪ノ下に勝長寿院(通称は南御堂・大御堂)建立の事始めを行い、九月三日父義朝の遺骨と迎えている。凶「下総五郎禅門道暁」の俗名はいったい誰か。従来よく『千葉大系たねなかたね図』の「下総五郎胤長」が比定されているが、兄の下総四郎胤時の記事が『吾妻鏡』寛元四年( 一二四六)の条に見えるし、弟の下総たねとし八郎胤俊は建長五年( 一二五一三別当稲山西雲寺とあり、この「胤長」が「道暁」であるためには百歳も生きなければならず、事実に合わない。また北条高時と同時代人の「胤長」には、長作仲」や「下総十郎」などがいる。「東次郎・又『千葉県史料中世篇本土寺過去帳』を網羅的に調べてみると「道暁」は四人みあたるが、いずれけちえんLeも時代的にみて本文の人物には比定できない。また、結縁者と同名のものも見あたらない。『千葉大系図』によれば、頼朝の参謀的存つねたねりくとう在であった千葉常胤の子にいわゆる千葉六党があり、そのひとり東六郎胤頼の二男に木内初次郎胤朝がある。彼は「下総国香取郡木内向き圧を領す。幕府に仕へ忠勤を抽んづ。承久合戦の時( 二一一一一)箪えレおのおのいへどすべ功他に異なる。(中略)此の究開各称号ありと難も、総て下総家を号うちょょすけす。又後年商孫の中、世々千葉介の家臣の長たるなり。」とあって、「下総五郎胤長」はその子であり、系図には胤長の子孫は記載されていないが、現時点では、分与すべき土地もなく、惣領家(千葉介発鐘々銘の一部谷玄明氏提供たねなが貞胤)の家臣団の長となった「下総五郎胤長」推論される。の子孫ではないかと-3-維孟古E竺蘭5王子若三とう寸還徴撞愛命白河氏鰹々鰹々音聞仏事(第三区)長勝厭名今器未宏舘範速成殿雷札鯨開聾啓盲大哉円通十虚廓清落景初更霜天月暁真機普発深禅僅仰衆夢斉驚苦趣休停そ①維れ古蘭若廠の名を長勝とすすんていびたううつわいまおほレ②寸逗微撞今の器未だ宏ならずふしようはんすみ③霊に亮氏に命じて銘範速やかに成るかうかうくわうくわういんらいこうげい④鰹々鰹々ととして股雷肌鯨おとぶつじきろうひら⑤音仏事を聞こし聾を聞き盲を啓くおほいじっこかくぜい⑥大なるかな円通十虚廓清すそうてんあかつ-ぎらつけいしよかう⑦霜天の月の暁落景の初更あまねひとし⑨真機普く発し衆夢斉く驚くえんぎゃうきうてい⑨深く禅に恒仰すれば苦趣休停す