ブックタイトルふるさと潮来 第六輯

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概要

ふるさと潮来 第六輯

の故事で知られる呉の都蘇州のことで、クリークが多く水の都東洋のヴェニスともいわれるところであり、寒山拾得で有名な寒山寺がある。これに比せられた潮来は、鎌倉時代には、すでに中国の水の都蘇州と同様に風光明婦な水郷地帝で、船舶の従来の絶えなかったことを物語っている。現在では家並みが立込んでしまっているが、往時は長勝寺の本堂の中から楼門と大門越しに、大門河岸の前川を往き交う帆掛船が眺められたといわれている(元県議故藤岡鉱二談)ところで、清拙和尚は蘇州に行脚しているのだろうか。をみると、つぎの詩がある。一挙四十九面南看北斗雛向姑蘇城作家便知有百花越子動獅子当門肌夜半日輪紅間市伸毛手『禅居集』休上人の姑蘇一挙四十九獅L 百{乍モ雛2南子L花家げやに盤f , か面当3子L便主にしに動ちm 姑こて門き有ぅ蘇f北にを域? 斗呼Lほ知に’をゆる向看みベへるしば聞5夜市L半にの毛日手輸を紅伸にぶしてを終えて帰国したのは、みようあんわが国に本格的な禅宗を招来したとされる明庵栄西が入宋参学の旅一一九一年(建久二)秋のことであり、少くとも長勝寺が開創された一一八五年の鎌倉幕府草創期には、また日本には禅寺はなく、長勝寺創建当時の宗派は、いわゆる鎌倉仏教ではなくて、真言宗や天台宗などの旧仏教系の党利であったと考えられる。それが鎌倉時代を通じて百余年の聞に、日本の禅宗は隆盛をきわめ、いわゆる日本禅宗の二十四流が派生し、それらの地方布教とともに長勝寺も転宗転派して禅剰になったものと推定される。また、党鐘が寄進された鎌倉時代末期をみると、大檀那北条高時は、たかすけ一三二六年(嘉麿一) 三月、内管領長崎高資の専横にたえかねて、病そうかんということで執権を辞し、弱冠二十四歳の若さで出家して、法名を崇鑑いうさんいちねいはっすと号した。まもなく「海東の檀信」(不明)の専使として一山一寧の法嗣あっ月山友桂が元朝治下の松江の真浄寺に派遣され、清拙和尚を篤く招請した(五村竹二『五山文学』他)。清拙和尚は八月博多に着岸し、翌年正月京都に上るが、二月には高時に迎えられて、鎌倉の建長寺・浄智寺に歴住した。さらに一三三O(天徳二)年八月円覚寺に入院して、十月一日長勝寺発鐘の鐘銘を童回した。しかし、その間畿内では、天皇親政を志向する後醍醐天皇を中心に鎌倉幕府討滅計画がひそかに進行しており、まもなく元弘の変に発展する。それからわずか三年後の一三三三年(元弘一三、高時ら一門は北条氏代々の墓所東勝寺で自害して果て、百五十年にわたる鎌倉幕府は滅亡した。-7-この時代に禅刺に寄進された党鐘をみると、清拙正澄のほか建長寺らんげいどhH,ゅう鐘の蘭渓道隆、、円覚寺鐘の西澗子曇をはじめ、中岩円月、竺仙覚悟、虎関師錬、義堂周信などの名僧の撰になる鐘銘はいくつも見られるが、その鐘が現存するものはきわめて少数である。清拙和尚の撰になる銘