ブックタイトルふるさと潮来 第六輯

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概要

ふるさと潮来 第六輯

が寺のなかで最高のところにあったことからである。この詩からも、長勝寺がかなり荒廃していたこと、以前の宗派は不明であるが、妙心寺派としたことなどの様子がうかがわれる。また、同文集の作品別にも{情}長勝寺祖祥長老の韻に和す馬を停めて海雲山に下村しころはなけんこんうが懐を聞いて目を放てば乾坤を窄うねんごろ老僧我を引いて苦に座を分つはしもんしず玉帯に葦づ此門を鎮むること無きをとあり、まだ堂宇の修復が完了していないことを示している。『常山文集拾遺』の書簡別には瑞雲和尚に簡すじじ@〈’e老大和尚、本月十日示寂す。許到る。驚悼の至りに堪えず。師の愁戚を想うベし。. 『西山過去帳』に、元禄七年(一六九四)十月十日、太出掛和尚が示寂し、「長勝寺西南隈に葬る」と記されている。光園は潮来でふざん他界した大掛和尚に対する哀惜の情を切々と「産山一段の雲、長勝寺ぎつどんの遺愛亭に題す」という雑言体で詠んでおり、この事業を引き継いだ長勝寺中興二世(末寺の徳島の則林寺開山)の瑞雲和尚が、これに和とあり、韻している。これらと関連するような記録がつぎの『常山文集補遺』印で、これらは長勝寺にも所蔵されている。かせふ長勝寺迦葉尊者像記むら常陸国行方郡潮来郡、海雲山長勝禅寺、中より派を改む。歴住の像だれがしかたはらたまたまありといへども、誰某かを知らず。堂の側に散・任す。技偶これを視陪とんかせふめんぼうこここ〈てうるに、殆ど迦葉の面貌に似る。是に於て工に命じて新に刻離せしむ。以て迦葉尊者の肖像を作って、彼の仏殿に安んずると云ふ。ぽいん元禄戊寅之歳この文から、「元禄戊貧之歳」は元禄十一年二六九八)であるからこの時点で「板久」は「潮来」と地名が変っていること、長勝寺ちんそうは中興に際して転派していること、中興以前の歴代住職の頂相彫刻があったが、堂外に放置され荒廃していたこと、光聞の迦葉尊者像寄進の由来などが読みとれる。「この時期を境に、わが国の長い社寺の歴史に大きな転機が訪れる。それまでの朝廷・幕府・領主層の保護のもとでの社寺維持という形態から一変して、善男善女の浄財寄進という新たな事態を迎えることになった。」と一色史彦先生の指摘されるように、長勝寺は、頼朝の創建以来、鎌倉幕府という権げこげご力者の外護寺であったが、その滅亡後は外護者を失って荒廃の極に達していた。光園はその識見によって歴史的遺産の保護保存という観点から、みずからの肝いりで地元民の力を動員して檀家寺として- 9-中興したが、資金調達をはじめ、再建当時の地元民の苦心が「長勝寺物語」に記録されいる。光園が没してからちょうど百年目の寛政十二年(一八OO)頃、寛政の改革を行った松平定信が老中を辞したあと編さん発刊した『集古十種』の鐘銘の部に、「常陸国潮来長勝寺鐘銘」の拓本が掲載されて世の脚光をあびた。それから二十数年後の文政八年(一八一五)、三十三歳の渡辺単山が心身の保養をかねて、六月二十九日から七月にかけて水郷を訪れ、『四州真景』を描いたが、その中に「海雲山在潮来北里」と題する長