ブックタイトルふるさと潮来 第六輯

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概要

ふるさと潮来 第六輯

せいせつしようちょう清拙正澄略歴長勝寺党鐘の鐘銘の作者である清拙正澄(大鑑禅師)とは、んな人物なのか、その略歴を記すと、陪うき中国元代の臨済宗の禅僧。法誇は正澄。道号は清拙。後醍醐天皇かちょ〈Lら贈られた勅誼号は大鑑禅師。日本禅宗二十四派の大鑑派(清拙派)一体どの祖。か’んしゅん一二七四年(南宋の威淳一O)福建省連江県の生れ。父は劉氏。母は孫氏。文筆僧として有名な月江正印は実兄。十五歳のとき報恩光孝おじげつけいじようえん寺で俗伯父の月遅紹円により剃髪出家し、十六歳で具足戒を開元寺しんこうくさんそしようじんずぐご〈ちえ(福建省泉州府晋江県)で受けた。鼓山の平楚筆、浄慈寺の愚極智慧りんにんいおうぎょAtんに参禅。さらに霊隠の虎岩浄伏、育王の東岩浄目、蒋山の月庭正中ω、仰山ひょ〈きりんぐごくちえの虚谷希陵らの尊宿に参じ、鶏足山聖因寺で愚極智慧(仏心禅師)の法を嗣いだ。の曹渓山真浄寺に住し、日ついで(松江上海市の西南)本からの招きを受けた。一三二六年(元の泰定三、日本の嘉暦一、五十三歳)夏、弟子の玉えいe むレんげんかい問、氷鋲を伴い、古先印元・無隠元晦らとともに博多に到り、聖福寺にじゆえん仮寓し、翌年京都に上り、北条高時の招きで鎌倉の建長寺に入院。ついで浄智寺、円覚寺に歴住。二二三三年(元弘三)五月鎌倉幕府が滅ぜんごあん亡し、建長寺の禅居庵に退居中、建武中興を達成した後醍醐天皇の招請を受けて、十月京都の東山建仁寺に入寺。その後、信濃の守護小笠原貞宗に招聴され開善寺開山となった。業やぶれ、夢窓疎石が去った後を襲って、大覚寺統(南朝)系の南禅寺に昇住し難局に対処した。一一二三九年(暦応一一) 一月十七日尊崇すはじようえかレはじようきゅレげぜんごあんじ。〈る百丈懐海の命日( 百丈思)に、遺備を書いて健仁寺禅居庵に寂し、一三三六年(建武三)中興の博多の聖福寺、鎌倉の健長寺、京都の健仁寺の各寺に隠寮として開創した禅居庵に分塔された。清拙和尚の生涯は、中国の民族国家の南宋が滅亡して、モンゴル民族(征服王朝の元)の支配下に入り終る時代であり、来朝した日本では鎌倉幕府が滅亡し、建武中興を経て新しい武士政権の室町幕府が京都にはじまる南北朝時代の初頭にあたる。清拙和尚と同時代人をあげれば、中国では日本の五山文学にもっとも大きな影響をおよ.ほした法〈りんぜいむ友の古林清茂(金剛瞳)があり、日本では清拙和尚と相前後して南禅寺に昇る夢窓疎石や虎関師錬がある。日本禅宗史上からみると、最大の出来事は嘉暦・元徳年間( 一三二六l三O)に元朝第一流の名僧が陸続として来朝し、日本禅宗の地位を中国のそれと対等にまで高めたことであり、その筆頭をなすのが清はじよ勺Lんぎ拙和尚である(『日本の禅語録八』他) 。清拙和尚は「百丈清規」をはじようえかいだいかんしんぎ制定した百丈懐海を尊崇し、自らも「大鑑清規」を撰述するなど、中しんぎ国禅林の規式を移植して日本禅林の規則の整備と清規の実践に努めた功績は大きく、北条高時はじめ、後醍醐天皇・足利尊氏・直義・大友貞宗・氏泰など、時の実力者の帰依を受け、ことに射芸・騎乗の法を伝える小笠原貞宗に影響を与え、小笠原流礼法がおこる機縁となったものと考えられる。また、臨済・黄葉の二宗で現在でも行なわれている昏丈訴は、清拙和尚が年中行事に加えたものである(『禅林文芸史-11-語』) 。墨跡は「元の正当派的習気のある書風で肉太の書に特色」がありゆレげかんわり(『新日本書道史』) 、ことに遺備のいわゆる「棺割の墨跡」は、鎌倉の常磐山文庫所蔵の国宝である。